第2話 甘さの裏で、仕事は止まらない


 土曜の午後。周は商店街の端にある小さな店の前で、自転車を降りた。

『陽だまり珈琲』

 昨日の看板は、晴れた空の下で少し照れくさそうに見えた。


 ドアベルが鳴る。店内はコーヒーの苦い香りと、キャラメルの甘い香りが混ざっている。

 カウンターの向こうに、エプロン姿の陽咲がいた。髪をまとめ、表情は学校よりさらに硬い。

「……本当に来たの」

「来た。客として」

「席は空いてる。注文して」

「じゃあ、ホット。苦めで」

「うちは豆が二種類。深煎りと中煎り。好みは?」

「深煎り。あと――キャラメル、ひとつ」

 陽咲の眉がぴくりと動いた。

「売り物。試食じゃない」

「買うよ。ちゃんと払う」


 陽咲が手際よくドリップを始める。ポットから湯が落ち、粉がふくらむ。周は見惚れた。

「蒸らし、長めだね」

「……見てわかるの?」

「自転車と同じ。手つきで癖が出る」

「へえ」

 感心とも警戒ともつかない声。


 コーヒーが出てくる。ひと口。苦い。だけど、角が丸い。仕事が丁寧だ。

 続けてキャラメルを口に入れる。甘い。……そして、後からほろ苦い。

「やっぱりコーヒー入ってる」

「当てないでって言ったのに」

「当たる。これ、深煎りに合わせてるでしょ。苦さを残して、甘さを立てる」

「……うちの常連?」

「初めて」

「気持ち悪い」

「褒め言葉として受け取る」


 陽咲は溜息をついたが、口元がほんの少しだけ緩んだ。周はそれを見逃さない。

 その瞬間、奥の厨房から男の声がした。

「陽咲ー! 砂糖、どこだっけ!」

「そこ! ラベル貼ってあるでしょ!」

「貼ってあるのに見えないんだよなあ!」

「見て!」


 陽咲がカウンターを離れ、奥へ消える。周は店内を見回した。壁には自転車の古い写真。ロードバイク、ママチャリ、タンデムまである。

 共通の趣味が、ここにもある。


 陽咲が戻ってきた。指先にまた小さな赤い跡。周はキャラメルの包み紙を指で折りながら言う。

「火傷、治ってない」

「仕事を休めないから」

「休まない、でしょ」

「……そう」


 周はカップを置いた。

「手、貸そうか」

「いらない。店は家の仕事。あなたに関係ない」

「関係ないなら、さっき笑いかけるなよ」

「笑ってない」

「口の端が0.5ミリ上がった」

「測るな」


 陽咲は睨む。でも、怒りの温度が昨日より低い。周はその隙に、壁の写真を指さした。

「この自転車、珍しい。昔のツーリング車?」

「父の。昔、よく乗ってた。でも……今は忙しくて」

 忙しさの言い方に、少しだけ重さが混ざった。


 そのとき、厨房からまた声。

「陽咲ー! 豆、切れそう!」

「はあ……。今日の配達、私が行く」

「俺が行こうか?」

 周が立つと、陽咲が即答した。

「だめ」

「なんで」

「あなた、信用できない」

「昨日、ブレーキ直したよ」

「機械は直せても、人の約束は直せないかもしれない」


 周は少し黙った。胸の奥が、キャラメルの苦さみたいにちくりとする。

「じゃあ、信用できる形にする。今ここで、配達先まで一緒に行く。途中で逃げない」

「……逃げたら?」

「追いつける自信ある?」

「ある」

「俺もある。勝負だね」


 陽咲は少しだけ悔しそうに、でも頷いた。

「十五分で戻る。店を空けられない」

「了解」


 二人は自転車にまたがり、豆屋まで走った。空気は冷たい。タイヤが濡れた路面を切る音が、妙に揃って気持ちいい。

 周は陽咲の横顔を盗み見る。仕事中の彼女は、目が真っ直ぐだ。迷いがない。迷ってる暇がない、とも言う。


 豆屋で受け取った袋はずっしり重い。陽咲はハンドルに引っかけようとして、片手がふらついた。

「危ない」

 周が支えると、陽咲はすぐ振り払った。

「触らないで」

「倒れて豆こぼしたら、もっと怒るでしょ」

「……それは、怒る」

「じゃあ、俺が運ぶ」

「だめ」

「じゃあ、半分。袋を二つにしよう」

「……最初からそう言えばいいのに」


 帰り道、空が急に暗くなった。細かい雪が舞う。

「また雪」

 陽咲が呟く。

「雪は嫌い?」

「嫌いじゃない。綺麗。でも……予定が崩れる」

「予定が崩れるのが嫌い?」

「嫌い。私がやらないと回らないから」

「回らないのは、世界じゃなくて、あなたの周りの人の甘えだ」


 陽咲が止まった。雪の中で、周を見た。

「……口が悪い」

「本当のこと言うのは得意」


 陽咲の睫毛に雪が積もる。周は笑いそうになるのを堪えた。

「なに」

「雪、似合う。怒ってても」

「褒めても許さない」

「許されなくていい。今、言いたかっただけ」


 店に戻ると、父らしき人が困った顔で迎えた。

「助かったー。陽咲、ありがとな。……あれ、お客さん?」

「ただの通りすがり」

 陽咲が即答する。

「通りすがり、豆を運ばないでしょ」

「運んだ」

「運んだのに、通りすがりなの?」


 父が笑い、陽咲が少しだけ頬を赤くする。周は胸の奥が温かくなった。

 その温かさに、ふっと影が差す。

 奥のテーブル席に、薬の袋と診察券が見えた。陽咲が慌ててそれを隠す。目が一瞬だけ、痛いほど固くなる。


 周は聞かなかった。今はまだ、踏み込む距離じゃない。

 代わりに、カウンターに戻った陽咲へ言う。

「新しいメニュー、作らない? 雪の日限定のやつ」

「……余計なことを」

「余計じゃない。店は、味で覚えてもらう。あなたのキャラメル、武器だよ」

「武器とか言わないで」

「じゃあ――お守り」


 陽咲は黙ったまま、ポットを持ち直す。

「……明日の朝、試作する。あなたは、早起きできるの?」

「雪でも自転車で来る男だよ」

「自慢するな」

「事実だろ」

「……来なさい。遅れたら、二度と許さない」

「二度と? 厳しいな」

「私は簡単に許さない。だから――来たら、少しだけ信用する」


 閉店後。シャッターが半分降りた店内で、陽咲は腕時計を見た。

「十五分だけ。明日は朝が早い」

「はいはい、仕事人さん」

「その呼び方、やめて」

「じゃあ“店長代理”」

「……それもやめて」


 周はグラインダーを覗き込み、豆の粒を指で摘まむ。

「挽き目、少し細かい。キャラメルの甘さに負けないように、香りを前に出すなら――」

「講釈はいい。手を動かして」

「了解」


 周がサーバーに湯を落とすと、陽咲はタイマーを押した。秒単位で管理するところが、彼女らしい。

 周がふざけて「監督官」と言いかけた瞬間、手元が滑り、湯が少しだけカウンターにこぼれた。

「……周くん」

 呼び方が名字から名前に変わっている。つまり、怒りの温度が上がった合図だ。

「ごめん。今のは俺のせい」

「当たり前。拭いて。次は、こぼさない」

「はい」


 拭き終わると、陽咲は小さく頷き、キャラメルを鍋で温め直した。甘い香りが広がる。

「苦さは、残す。甘さだけだと、逃げ道がないから」

「逃げ道?」

「……飲む人が、今日を思い出す場所。そこに苦さがないと、嘘になる」

 周はその言葉を、胸の中で大事に折りたたんだ。


 完成した一杯を、二人で分けて飲む。

 甘くて、苦くて、喉の奥が熱い。

 陽咲がぽつりと言った。

「これなら……明日、母に持っていける」

「……母さん、病院?」

 陽咲は一瞬だけ目を伏せた。

「詮索しないで。私は、やるべきことをやるだけ」

「うん。でも、持っていくなら――保温ボトル、俺の予備を貸す。雪の日でも温かいまま」

「……あなた、案外ちゃんとしてる」

「案外とか言うな」


 周は笑って頷いた。

 甘さの裏に、苦さがある。

 その苦さの裏に、ちゃんと温かさがある。

 周は、その全部を知りたくなった。



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2026年1月13日 19:19 毎日 19:19

雪解けキャラメルは甘くて苦い mynameis愛 @mynameisai

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