雪解けキャラメルは甘くて苦い

mynameis愛

第1話 雪の朝、チェーンと怒り



 その朝、空はまっ白だった。校門へ続く坂道のアスファルトが、薄い粉砂糖みたいに光っている。

 周はペダルを踏み込んだ。雪の日でも自転車で行く。……というより、行けると自分が証明したい。

「行ける。俺なら止まれる。曲がれる。滑っても、持ち直せる」

 自信は、身体の中心に据えた重りみたいにブレない。


 ――その重りが、突然、横からぶつかった。


「きゃっ!」

 鈴の音みたいな悲鳴。ハンドルが絡み、タイヤが空回りし、二台の自転車はぎりぎりで転倒を免れた。

 周は足をついて止まる。相手の女の子は、眉間に雪より冷たい皺を寄せた。


「……また、あなた?」

「またって、昨日も会ったっけ」

「廊下で、あなたが私の手帳に肘をぶつけた。謝らなかった」

「え。あれ、ぶつけたの俺? ごめん。気づかなかった」

「“気づかなかった”で済むなら、全部済むわね」


 名前を思い出す。陽咲。学年トップ常連、委員会の仕事を淡々と片づける“仕事人”。笑うより、締め切りを守るほうが得意なタイプ。

 周は口角を上げた。こういう子ほど、崩したくなる。……いや、別に悪意はない。面白いからだ。


「大丈夫? ケガは」

「大丈夫。問題は――」

 陽咲は自転車の前輪を握り、ブレーキを引いた。スカッ。空気だけが鳴る。

「……ブレーキが効かない」


 周は覗き込む。ワイヤーが外れていた。雪で固まった泥も詰まっている。

「直せるよ。工具、持ってる」

「持ってるの?」

「常備。雪の日は特にね」

「……自分がすごいと思ってる顔」

「当たり。俺、結構すごい」


 陽咲は睨んだ。睨みだけで人を転ばせられそうな目だ。

「あなたに触られたくない」

「触るのは自転車だけ」

「同じよ。あなたの軽さが嫌い。簡単に謝って、簡単に忘れて、簡単に――」

「簡単に、はしてないよ」

 周は工具ケースを開け、手袋を外した。指先が冷たくて、逆に冴える。

「俺はね。できることは、今ここでやる」


 ワイヤーを戻し、泥を掻き出し、テンションを調整する。雪が手の甲に落ちて溶け、しみる。

 陽咲は腕を組んだまま見ていた。信用してない目。許す気ゼロの口。


「はい。引いてみて」

 陽咲がブレーキを握る。今度はきゅっと利いた。

「……使える」

「でしょ。遅刻しそうだし、急ご」

「あなたと並走したくない」

「じゃあ、先に行って。俺は後ろで見張る。雪道は危ない」

「……命令?」

「提案。安全のため」


 陽咲は少しだけ迷い、そしてペダルを踏んだ。周は少し距離をあけて追う。

 坂の途中、後輪が小さく滑った。陽咲の肩が跳ねる。

 周はすぐ声をかける。

「体重、前に乗せすぎ。視線は先。ハンドルは固定しないで、雪を受け流す感じ」

「……余計なお世話」

「言い方は冷たいけど、ちゃんと聞いてるね」


 校門が見えたところで、陽咲は急にブレーキをかけた。周も止まる。

「何?」

 陽咲が小さく息を吐いた。白い息が、コーヒーの湯気みたいに揺れる。

「さっきの……謝罪。軽く言った。私は、軽いのが嫌い」

「わかった。じゃあ、改めて」

 周は正面から頭を下げた。

「昨日の廊下のことも、今日ぶつかったことも、ごめん。あなたの時間を奪った」


 陽咲は驚いた顔をした。たぶん、こういうのは慣れてない。

「……遅刻したら、私の責任になる。あなたのせいにしない」

「強いな」

「当たり前よ。自分の責任を、他人に押しつけない」

「俺、押しつけられるのも嫌いだ。だから、ちゃんと謝る」


 教室に着くと、担任が「提出物!」と叫んだ瞬間、空気が凍った。

 周は鞄を漁る。プリントが見当たらない。――あ、昨日のまま机の引き出しだ。

 周が「終わった」と呟くより早く、前の席の陽咲が立ち上がった。

「先生、昨日お配りしたプリントの回収は、教室の後ろに箱を置きます。提出漏れが出ないように、今ここで声をかけます」

 手際が良すぎて、クラスが自然に従う。陽咲が“仕事人”と呼ばれる理由が、わかりすぎる。

 周は手を上げた。

「陽咲さん。俺、提出――」

「あなたは“周くん”。名字で呼ばれるほど、信用してない」

「厳しいな」

「締め切りは、甘くない」


 その言い方が、なぜか胸に残った。甘くない。だけど、嫌いじゃない。

 周は休み時間に引き出しへ走り、プリントを回収箱へ滑り込ませた。……ギリギリセーフ。

 箱の横に立つ陽咲は、微動だにしない。監督官みたいだ。


「助かった。あの宣言なかったら出し忘れてた」

「感謝の方向が違う。次から忘れないで」

「はいはい。――手、どうした?」

 陽咲の指先に、小さな赤い跡があった。火傷みたいに見える。

「……関係ない」

「関係ある。痛いでしょ」

「痛くても、やることはある」


 周は口をつぐんだ。強さの裏に、無理の匂いがする。

 放課後、周は自転車置き場でまた陽咲を見つけた。彼女はチェーンに雪解けの水が垂れるのを見て、眉を寄せている。

「チェーン、錆びるよ」

「……あなたに話しかけられるのも、錆びる」

「ひど。じゃあ、錆び止めスプレーだけ渡す」

「要らない」

「要る。雪の日の自転車通学は、装備が命」

「……なぜそこまで」

「共通の趣味だから」

 周は自分の工具ケースを軽く叩いた。

「自転車、好きでしょ。あなたのブレーキ、調整が好みだった」


 陽咲の目がわずかに揺れた。怒りの壁に、細い亀裂が入る。

「……好き。効率がいい。時間を買えるから」

「最高の理由。俺も同じ」


 その瞬間、陽咲の鞄から小さな紙袋がこぼれた。甘い香り。キャラメルの匂いだ。

 周の鼻が反応する。

「それ、手作り?」

「……違う。買った」

「嘘。包み方が、手作りの人の手。甘いの、作るの?」

 陽咲は紙袋を拾い、頬をわずかに赤くした。

「……仕事で必要だから。カフェで」

「カフェ?」

「家の。放課後はそこで働いてる」


 周は思わず前のめりになった。

「行っていい? そのキャラメル、味見したい。甘くて……たぶん苦い」

「勝手な想像をしないで」

「想像じゃない。甘い香りの中に、苦い香りが混じってる。たぶんコーヒーを少し入れた」

「……当てないで」


 陽咲は睨みながらも、紙袋を胸に抱えた。その表情が少しだけ柔らかい。

「……来るなら、客として。私は仕事をする。馴れ馴れしくしないで」

「了解、仕事人さん」


 雪は夕方には雨に変わり、道を黒く濡らした。

 周は自転車のライトを点けながら思った。

 今日は、ぶつかった。謝った。直した。少しだけ近づいた。

 恋の味は、甘くて苦い。たぶん、あのキャラメルみたいに。


 帰り道、周はわざと遠回りして商店街を通った。雨に濡れた看板の中に、柔らかい灯りの店がある。

『陽だまり珈琲 手作りキャラメルあります』

 看板の文字が、今日の彼女みたいに真面目で、少しだけ可愛い。

 周は小さく笑って、ペダルを踏んだ。



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