短編小説「みちくさ」

Slumber Party

短編小説「みちくさ」

 今は早い段階で塾へ行かせる家庭が主流で、以前よりも、子どもへの習い事にお金を掛けられる家庭と掛けられない家庭での学力格差が大きく開いている。

2020年から、英語教育は小学校3年生で必須科目となったが、早くから英語教育を受けている子どもは、小学校入学時点で、be動詞や基本文法の知識をしっかりと身につけている。中には完璧なスピーキングができる子どももいる。


 中野の家庭は、元々経済的に裕福な家庭ではなかったと聞く。祖父の代、もしかしたらその前から、家庭が複雑で、経済的にも精神的にも寂しい状態だったのかもしれないが、担任の私が知る限りでは、彼が生まれた段階で、すでに寂しさが揃えられた環境だった。


 私は彼の担任で、担当は世界史だ。中野は不良でもなければ、秀才でもない。模範的な学級委員長タイプでもない。どちらかと言えば大人しい性格だが、それでも、人柄が良く、人望もあって、クラスから浮いたり、虐められるようなことはなかった。クラスメイトもその保護者も、学校関係者も中野の家の近所に住む大人達も、彼の置かれている状況や彼の人柄をある程度把握していた。


 正直、私は彼の将来が気がかりだった。中野の家庭事情を考慮すると、進学は難しいだろう。もちろん、本人に強い意志があれば協力したいところだが、現実的に、教員としても大人としても立ち入れない領域が存在する。彼が学校という庇護を抜けて、クラスメイトよりも早く社会に出たとして、逞しく生きていけるのかが心配だった。


 ある日の放課後、授業で使う資料を探しに図書室へ行くと、1人で席に座り、何かを読んでいる中野を見かけた。


「珍しいな、1人で図書室にいるなんて」


私は、中野の尊厳と自主性を侵害しないように気を配りつつも、普段通りのトーンを維持しながら声をかけた。


「あ、先生!ちょうど良かった!」


何がちょうど良いのかわからなかったが、彼が私を頼ろうとしてくれていることがわかった以上、期待に応えようと内心身構えた。


「なんだ?宿題の質問か?」

「違うよ」


中野は笑いながら私の推察を否定した。


「宿題は先生のノートを見ながらやれるから」

「じゃあ、小説でも読んでるのか?」


中野は笑いながらそれも否定した。中野が見せてきた本の表紙は、授業で使う世界史の教科書よりも、更に詳しく近代史が書かれた専門書だった。


「お前、世界史に興味があるのか?先生嬉しいな!」


私は素直にそう思った。しかし、これも中野は笑顔で首を横に振って否定した。私は少し寂しくなった。


「うち、昔から貧乏だから、歴史を変えるヒントがないかなと思って古い歴史を追って読んでるんだよ」


「そうか」


そこから先の言葉を詰まらせてしまい、私は担任としても大人としても、しまったと思った。それに気付いているのか気付いていないのか、中野は変わらぬ笑顔で私を見ていたが、多分、見抜かれていたと思う。


「中野…」


私は声のトーンを落とし、静かに語りかけた。


「先生は資料をコピーしたら今日の仕事は終わりだ。ここで待っていなさい」


中野は不思議そうな顔をしながらも、「はい」と素直に返事をして、また近代史の本を読み始めた。


 中野の帰りが遅くならないように、私は急いでコピーを取りながら、帰宅の準備もしつつ、今日やるべき最低限の業務を終えてから、再度図書室へ向かった。読書に飽きたのか、中野は席から離れ、後ろで腕組みをして、棚に並べられた本を端からゆっくりと眺めながら歩いていた。たまに本を手に取り、パラパラとページを捲っては戻したりもして。


「すまん、中野!」


中野は振り返ると、笑顔で首を横に振った。


「中野、ちょっと先生に付き合え!親御さんには先生がちゃんと言っておくから」


「えー、居残り?」


心底嫌そうな顔をしていた中野を見て笑いそうになったが、我慢した。私は至って真面目だったからだ。


「違う。いや、ちょっと合ってるか。先生は世界史が専門だ。お前に歴史の読み方を教えてやる。荷物を持ってきなさい。帰りながら教えてやる」


「良かった、居残りじゃなくて!先生、ありがとう」


中野の「ありがとう」という言葉に、私は少し胸を痛めた。私は、これから彼に厳しいことを、非常な現実を伝えるつもりだった。


 学校を出て10分ほど歩くと、コンビニエンスストアがある。ここは我が校の生徒もよく寄り道をして、よくご迷惑をお掛けしている。私は普段この店に立ち寄ることはないが、中野の家の最寄りには、ここしかなかった。私が先に入店すると、中野は戸惑った様子で後からついてきた。


「どうした?」

「先生、買い食いしないで早く帰れっていつも言うじゃん」

「いいんだよ、今日は授業も仕事もおしまいなんだから!!先生はコーヒーを飲むからお前も好きな物持ってこい、先生の奢りだ」


中野に買い物かごを渡すと、戸惑った様子でペットボトルのジュースを2本入れた。


「お母さんのもいい?」


私は笑いながら頷いて、コーヒーと一緒に会計を済ませて、外の駐車場へ出た。


 店のロゴが書かれた照明の下に灰皿があることを確認すると、私は中野に煙がかからないよう注意を促し、タバコに火を付けた。


「先生、タバコ吸うんだ!」

「たまにね」

「大変そうだもんね、先生の仕事って」


中野の知ったような口ぶりが面白く、私はつい笑ってしまった。私がタバコを吸うときは大体決まって、真剣な話をする前だ。


「先生、歴史の勉強ってどうやるの?暗記?」


中野の質問を受けて、私は改めて気持ちが引き締まり、真面目な口調で話し始めた。


「いや、先生はお前に歴史の勉強を教えるんじゃなくて、歴史の読み方を教えるつもりだ。中野は、どの時代のどんな歴史まで読んだ?」


「四大文明とか。今は大航海時代の話」


ジュースを飲みながら中野が話す。


「結構細かく追ってるんだな」

「どこにヒントがあるかわからないから。でも、先生が授業でやったところだから復習にもなって面白いよ」


中野の好奇心に貢献できていることが素直に嬉しかったが、照れ隠しでタバコを吸い、誤魔化した。


「で、今のところヒントは見つかりそうか?」


中野は首を振る。笑顔ではなく、がっかりしているような表情で。素直な性格が、表情にも出やすい。


「全然。でも、今読んでる中世ヨーロッパの話は少しヒントがありそう」


そう言うと、中野は鞄から図書室で読んでいた本を出した。表紙がボロボロの『図説世界史』という古い本で、ページのところどころに、中野が書いたであろうメモが挟まれていた。


 中野から本を借り、ペラペラとめくって見る。十字軍のところでは、「王様が偉くなり、農民はそれに我慢をして従い続けた(貧乏なのになぜ?)」とか、大航海時代のところでは、「ヨーロッパがどんどん勝ち組になっていった(力で変化していく)」などと書かれていた。私は本を閉じて、中野に返した。


「よく勉強してるな。先生、正直かなり驚いたよ」


中野は照れくさそうに笑う。それを見て複雑な気持ちになった。熱心に勉強をしていることは教師として嬉しい。しかし、メモに書かれていたことを思い出すと、素直な今の中野が変わっていってしまう危うさも感じた。そして、これから私が中野に話そうとしていることが、素直で熱心な今の中野を、深く傷つけてしまうのではと危惧した。


 私はタバコを押し消し、吸い殻を灰皿へ落とすと、慎重に落ち着いて中野に話しかけた。


「中野、歴史はどう変わったと思う?」

「どうって?」

「お前が読んでる時代と、今の時代と比べて」


中野は腕を組み、顔を俯かせて「うーん」と唸り始めた。私の尋ね方が抽象的すぎたと反省し、コーヒーを一口飲み、タバコを咥えて火を付けてから質問を改めた。


「中野、授業じゃないんだからさ!正解はないんだよ。お前が感じたことを、今の考えを、素直に先生に聞かせてみなさい」


まだ暫し唸り続けてから、顔を上げて中野が話し始めた。


「なんか、あんまり今と変わらない気がする」

「へえ。例えばどんなところが?」

「貧乏な人がいて、戦争があって…発展はしてるけれど、そういうのがいつも出てくるから」


中野の答えを聞いて、私は感心した。彼の熱意の根源は、自分の状況を変えたいという感情なのに、すごく俯瞰した視線で世界史を追っている。年相応の素直さとは別の、中野の利発さが伝わるような答え。


「そうだな…でもさ…」


私はタバコを深く吸ってから呟いた。


「歴史は変わらない。過去の歴史も変えられない。それは悲劇的なのかもしれない」

「うん」

「でも…」


(でも中野、今のお前であり続けるという変わらないことがいいこともある)

そう心の中で呟いてから、私は話を続けた。


「変えられないことが悲劇じゃあないんだ。正しく変えられないのが、悲劇なんだ」

「うーん…」


中野はまた腕組みをして唸り始めた。だが、今度は改めて分かりやすく伝えるつもりはなかった。


「難しいか?」

「ちょっと」


中野の反応を見て、私は笑った。


「今はそれでいいよ」

「はい…」


腑に落ちないという表情を浮かべた中野を見て、更に笑いそうになったが、彼の自尊心を傷つけまいと思い、堪えた。


歴史は変えられないかもしれない。でも、見続ける意味はある。中野があの本を読み終える頃に、またここでそのことを話そう。そう思い、私はタバコの煙をゆっくりと吐いた。





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