第2話 その名前を捨ててくれ
六月。雨が続き、空気が重い。喫茶店の窓を伝う水滴を見ながら、瑠璃は二通目の封筒を指で回していた。
差出人は、また空欄。
宛名だけが、また瑠璃。
「また来た」
「……また来ましたね」
広士朗は、座る前に椅子の脚を確認してから腰を下ろした。前回、別の客が椅子を引いて床を擦った音が気になったらしい。店員にフェルトを頼むかどうか、三日悩んで、結局頼めなかった、と昨日メールが来た。
瑠璃は封筒を開け、便箋を広げる。
――雨の匂いがすると、心は後ろ向きになる。
――でも、足は前へ出せる。足は、嘘をつかない。
「……これ、好き。今日の私に刺さる」
「刺さる、は危険な表現です」
「比喩だよ」
瑠璃は笑いながら、広士朗の指先を見る。彼の手は、カップに添えたまま動かない。震えていないけれど、いつでも逃げ道を確保している手。
「ねえ広士朗さん。正直に言って。これ、あなた?」
「違います」
「即答。じゃあ、郵便局で“自分宛のポエム”を出してる人、心当たりある?」
「……それは」
広士朗の視線が、ほんの一瞬だけ泳いだ。瑠璃はその一瞬を見逃さない。
「あるね」
「ありません」
「ある人の否定は、間が一拍あるんだよ」
広士朗は息を吐いて、カップの縁を指でなぞった。
「……確認したいなら、郵便局へ行けばいい。差出人が空欄でも、受付の時間帯とか、窓口の混み具合とかで推測はできます」
「推測できるの?」
「……できます。行くなら、雨が弱い今です」
瑠璃は立った。決断は早い。
「行こう。今」
「……傘、ありますか」
「一本。二人で入ろう」
「濡れる確率が上がります」
「濡れたらタオルで拭けばいい。広士朗さんは、いつもハンカチ持ってるし」
「……はい」
郵便局は喫茶店の隣。二人は同じ傘に入って歩いた。瑠璃の肩が濡れそうになるたび、広士朗が傘をそっと傾ける。自分の肩が濡れる。気づいても直さない。
窓口は三つ。行列は短い。
瑠璃が番号札を取ろうとした瞬間、広士朗が腕を伸ばして止めた。
「先に、確認します。窓口の人に話しかけると、履歴が残る可能性が――」
「残って困ることある?」
「……あります」
瑠璃は眉を上げた。
「ます、って言った」
「言ってません」
「言ったよ」
広士朗は観念したように、受付台の横へ視線を落とした。そこには、住所ラベルが並ぶ棚と、記入台。ふと見ると、記入台の隅に小さな封筒が積まれている。まさに、瑠璃が受け取った封筒と同じ種類。
その封筒に、誰かが宛名ラベルを貼っている。
貼っている手は、広士朗の手だった。
「……広士朗さん」
「違います」
違わない。今、目の前で貼っている。
瑠璃は、広士朗の背中越しに封筒の宛名を読もうとした。広士朗はその動きを感じて、封筒をさっと裏返した。隠し方が上手いのに、隠している事実が増えている。
「ねえ。差出人、空欄にしてるの、あなたでしょ」
「……俺は」
「自分宛?」
「……はい」
瑠璃は目を丸くした。
「え、私じゃないの?」
「俺です。俺の、自分宛のポエムです」
瑠璃は笑ってしまった。雨の中を来たのに、答えが思っていた方向と違いすぎる。
「何それ。自分にラブレター送ってるの」
「ラブレターじゃないです。安定させるための、手順です」
「手順?」
「不安になると、最悪の想定だけが増える。だから、未来の自分へ“今の自分”が言葉を残す。受け取った時、落ち着ける」
瑠璃は、広士朗の封筒を指差した。
「でも、私に来たよ」
「……そこが、事故です」
「事故って言い方、ひどい」
「事故です。宛名ラベルを貼り間違えた。あなたと俺の名前が、並びで表示されて……俺、焦って」
「焦ったんだ」
「焦りました。あなたが横にいると、想定外が増える」
瑠璃は、封筒を一つ手に取った。記入台の脇に置かれた広士朗のメモ帳が、雨の日でも持ち歩かれている。そこには、三つの言葉が繰り返し書かれていた。
――危険。
――確認。
――無理。
瑠璃は、その最後の「無理」に指を止めた。
「広士朗さん、これ……何?」
「……俺の口癖です」
「自分に“無理”って名前を付けてるみたい」
広士朗は、メモ帳を奪うようには取らなかった。ただ、瑠璃の指先から目をそらした。
「……昔、失敗して。守ろうとして、何も言えなくて。結果、全部こぼれた。だから、“無理”って書くと、止まれる」
瑠璃は、メモ帳を閉じた。ゆっくり閉じた。
「止まるのは大事。でも、止まりっぱなしは、つらくない?」
「……つらいです」
その言い方は、正直だった。雨音より小さいのに、胸の内側に響く声だった。
瑠璃は、広士朗の手元の宛名ラベルを指でつまんだ。
そこには、きれいな印字で「無理」と書かれていた。宛名欄の上に、まるで名前みたいに。
「これ、あなたの“名前”なんだ」
「……はい」
「じゃあ――」
瑠璃はラベルをはがした。はがすとき、少しだけ指が震えた。広士朗ではなく、瑠璃の指が。
「その名前を捨ててくれ」
広士朗が言った。思いがけないほど強い声だった。
瑠璃は驚いて、ラベルを握ったまま固まる。
広士朗は続けた。声は強いのに、目は逃げない。
「俺が捨てられないから、あなたに言うのは卑怯だけど……あなたが“無理”を持つのは、見たくない。……宛名を間違えたのは俺のせいだ。俺の“無理”が、あなたへ飛んだ」
「飛んでないよ」
「飛びます。言葉は、移る」
瑠璃は、ラベルを見つめた。小さな紙片。たった二文字。
でも、重い。
「わかった。捨てる」
「……本当に?」
「うん。代わりに、名前を付け直す。今日の私と、明日のあなたに」
瑠璃は、記入台の端に置かれた空のラベル用紙を一枚取った。ペンを走らせる。
書いたのは、ひらがなで三文字。
――できる。
「これ、貼って」
「……“できる”は、リスクがあります」
「リスクがあっても、貼るの。貼ってみて、だめならまた考える。広士朗さんの得意分野でしょ。確認と改善」
広士朗は、しばらくラベルを見つめていた。雨の音が、局内の天井で鳴る。
それから、そっと受け取って、封筒の宛名欄の上に貼った。
「……貼りました」
「うん。似合う」
広士朗は、目を伏せたまま言った。
「……あなたの宛名を、間違えないようにします」
「間違えてもいいよ」
「よくないです。あなたには、ちゃんと届いてほしい」
瑠璃は笑った。胸が温かくなった。
言葉の“届く”を、広士朗は本気で扱っている。
局を出ると、雨が少し弱くなっていた。傘を開く前に、広士朗が自分の上着を脱いで瑠璃の肩にかけた。
濡れるから、と言う前に、もうかけ終わっている。
「広士朗さん、今のは想定外だよ」
「……想定内にしたいです」
季節の風は、まだ湿っている。
それでも、瑠璃は思った。
今日、宛名が変わった。
言葉が、少しだけ軽くなった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます