第3話 宛名を書き替える、秋の夜
十月。夕方の空が早く暗くなる季節。喫茶店の前の並木を、乾いた季節の風が通り抜ける。葉が一枚、瑠璃の足元へ落ちた。
「……寒いですか」
広士朗が、声をかけた。手には薄いマフラー。瑠璃が買うのを迷っていた色と、同じ系統。
「これ、どうしたの」
「先週、あなたが“迷う”って言ったので。迷ってる間に、冷えると思って」
「広士朗さん、私の迷いは想定内に入れてるんだ」
「入れました。優先度、高めで」
店に入ると、いつもの火曜。いつもの席。いつものコーヒー。
でも今日は、瑠璃の前に封筒が置かれていた。三通目。
差出人は空欄。宛名は、瑠璃。
「……また自分宛のポエム?」
「……今回は、あなた宛です」
広士朗の言い方は、逃げ道を残していなかった。
瑠璃は封筒を手に取り、ゆっくり開けた。便箋の字は、これまでと同じ雰囲気。でも、最後の一行だけ、少し筆圧が強い。
――季節の風が冷たくなるほど、守りたいものが増える。
――あなたの名前を、ちゃんと呼びたい。
――瑠璃へ。
瑠璃は便箋を胸に当てた。笑ってしまいそうで、息を吸う。
「……やっと差出人が出た」
「出してません。最後に書いただけです」
「それが差出人でしょ」
広士朗は、カップを両手で包んだ。湯気が指先を撫でるのに、彼の目は瑠璃から離れない。
「……俺、あなたに謝りたいことがあります」
「何?」
「最初の二通。あなたに届いたのは、俺のミスでした。でも、どこかで……届いてほしいと思ってた」
「……危険だね」
「危険です。だから、今日、言います。言わないと、また“無理”が戻る」
瑠璃は頷いた。
「うん。言って」
広士朗は、カップを置き、ポケットから小さな紙片を出した。郵便局のラベル用紙を切ったもの。そこには、あの二文字が印字されている。
――無理。
「……捨てられなくて。ずっと財布に入ってた」
「捨ててないじゃん」
「捨てられませんでした。でも、あなたが“できる”を貼った日から、少しだけ変わった。俺の宛名が変わった、って感覚が残った」
瑠璃は紙片を受け取り、テーブルの上で指先で押さえた。
「じゃあ、今日は捨てよう。ここじゃなくてもいい。ちゃんと捨てる場所、作ろう」
「場所?」
「川沿い、行こう。風が通るところ。紙って、風で飛ぶから、落とさないように持ってね」
「……はい。落とすのは危険です」
二人は店を出て、川沿いへ歩いた。街灯が水面に揺れ、乾いた風が髪を揺らす。
瑠璃はベンチの前で立ち止まり、バッグから小さな封筒を取り出した。中身は、何も入っていない。
「これ、何?」
「宛名を書き替える封筒」
瑠璃はペンを取り出し、封筒の宛名欄に、ゆっくり書いた。
――広士朗。
それから、差出人欄に、自分の名前を書いた。
――瑠璃。
「はい。これ、あなたに出す」
「……今、ここで?」
「うん。郵便局は閉まってるから、明日出す。でも、先に渡す。意味として」
広士朗は封筒を受け取った。受け取る指が、ほんの少しだけ震えた。
「……開けてもいいですか」
「いいよ」
中に入っていたのは、ラベル用紙が一枚。そこに瑠璃が書いた字。
――だいじょうぶ。
広士朗は、それを見て、笑いそうになって、でも堪えたみたいに口元を押さえた。
「……危険です。泣きそうです」
「泣いていいよ。風が拭いてくれる」
「季節の風に、拭かれたら……目が赤くなります」
「じゃあ私のハンカチ使って。広士朗さん、いつも私に貸す側だから」
瑠璃がハンカチを差し出すと、広士朗は受け取らず、代わりに瑠璃の手首をそっと掴んだ。強くない。逃げられる。でも、逃げないでほしい、という圧だけはある。
「……瑠璃」
「うん」
「あなたが、あの日、ラベルをはがしたでしょ。あれ、俺にとっては……宛名が変わった瞬間だった」
「うん」
「だから、今度は俺がやります」
広士朗は財布から「無理」の紙片を出し、瑠璃の手のひらに乗せた。
「……これを、捨てます。あなたの前で。言い訳しないで」
瑠璃は頷いた。
広士朗は紙片を握り、ベンチ横のゴミ箱へ向かった。途中で立ち止まる気配があったのに、足は止まらなかった。投げ入れるのではなく、そっと置いた。丁寧すぎて笑えるのに、胸が熱い。
戻ってきた広士朗は、息を吐いた。
「……捨てました」
「えらい」
「その言い方は、危険です」
「褒められると危険?」
「……嬉しいのは、制御が難しい」
瑠璃は笑って、広士朗の腕に軽く触れた。
「じゃあ、制御しなくていい。今日だけ」
「今日だけ、は……」
「明日も、いいよ」
「……想定外が増えます」
「増えても、確認して、改善して、また笑おう」
広士朗は、しばらく黙ってから、瑠璃の肩にマフラーを巻いた。端を揃え、指先で整える。距離が近いのに、彼の動きは丁寧で、逃げ道を塞がない。けれど、目だけは外さない。
「……瑠璃」
「うん」
「あなたのこと、守りたいです。危険が来たら、先に俺が受けます」
「それは溺れそうな言い方」
「溺れるのは、あなたにだけでいいです」
瑠璃は、吹き出した。
「何それ。かっこいいのに、ちょっと恥ずかしい」
「恥ずかしいので、これ以上は言いません」
「言ってよ」
「……リクエストは、優先度が高いので」
季節の風が、二人の間を通り抜ける。
それはもう、誰かの言葉を運ぶだけの風じゃない。
二人が宛名を書き替えたことで、言葉が迷わず届く風になった。
瑠璃は思う。
自分に貼っていた“無理”は、もういらない。
広士朗の慎重さは、私を止める鎖じゃなくて、私を大事に扱う手つきだった。
「帰ろうか」
「はい。あなたの歩幅に合わせます」
広士朗は、瑠璃の歩幅を先に見てから、一歩目を出した。
その一歩が、もう迷っていなかった。
【完】
宛名を捨てて、風に恋を書く mynameis愛 @mynameisai
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