宛名を捨てて、風に恋を書く

mynameis愛

第1話 風が運んだ、自分宛のポエム

 四月のはじめ。川沿いの遊歩道を抜けると、古い郵便局の隣に、小さな喫茶店がある。ガラス戸を開けるたび、店の奥まで春の匂いが入りこむ――そんな場所で、瑠璃は昼休みを使ってノートを広げていた。


 テーブルの上には封筒が一通。差出人は空欄。宛名だけが、きっちりと印字されている。

 「……私?」


 瑠璃は迷わず開けた。ためらいより先に指が動く。中から出てきたのは便箋一枚だけだった。


 ――季節の風が、あなたの背中を押す。

 ――今日は、昨日より一歩だけ軽い。


 たったそれだけの短い詩。

 自分宛のポエム。けれど、瑠璃はこんなのを書いた覚えがない。ノートの隅にメモした言葉とも違う。


 「何これ。怖い……いや、面白い」


 声に出した瞬間、隣の席から小さく咳払いが聞こえた。視線を上げると、スーツ姿の男が、カップを持ったまま固まっている。目が合うと、男は少しだけ肩をすくめ、落とした視線をテーブルに移した。


 「それ、俺の……いや、俺が持ってた封筒じゃないです」

 「どっちですか」

 「まず、落ち着いてください。落ち着くと状況整理ができます」


 瑠璃は便箋をひらひらさせた。

 「落ち着いてます。むしろ、もっと知りたいです。あなた、誰ですか」


 男は名刺入れに手を伸ばしかけて止めた。慎重すぎて、動作が途中でいちいちブレーキを踏む。

 「広士朗です。……広士朗、って名乗ればいいですか」

 「名乗ればいい、って何ですか。広士朗さんで合ってます?」

 「合ってます。たぶん」


 瑠璃は笑ってしまった。自分の方が知らない手紙を持っているのに、この男は“たぶん”で生きている。


 「じゃあ広士朗さん。これ、あなたが送ったんですか」

 「違います。俺は、さっき郵便局で……封筒を落としそうになって。宛名を確認したらあなたの名前だったから、届けるべきか、局員さんに渡すべきか、迷って――」

 「迷ってここに来た」

 「ええ。ついでにコーヒーを飲むつもりで」

 「ついでの精度が高すぎます」


 瑠璃は封筒を指でトントンと叩いた。

 「差出人がないのは、わざとですか」

 「わざとなら、もっと危険です」

 「危険でも、気になります」


 瑠璃は立ち上がり、広士朗の席へ回り込んだ。男は慌ててカップを机の端へ寄せる。こぼす可能性を消す動きだけは速い。


 「広士朗さん、さっき郵便局で何してました?」

 「……郵便。です」

 「郵便の中身」

 「……それは、リスクが」


 瑠璃は、広士朗の机の上に置かれた小さなメモ帳を見つけた。そこには、郵便局の窓口番号と、料金表の走り書き。さらに隅に、短い言葉がある。


 ――季節の風。

 ――宛名。

 ――今日の自分へ。


 「……これ、あなたが書いた?」

 「見ないでください」


 言い方が、怒っていないのに必死だった。瑠璃はメモ帳をそっと戻す。

 「ごめん。でも、私は怖くない。むしろ、嬉しいです。だって、今日の私に届いた言葉だし」


 広士朗は一拍置いて、視線だけで店内を見回した。人が少ないのを確認してから、小声で言う。

 「あなた、たまにこの店に来ますか」

 「週に二回。火曜と金曜」

 「……俺もです。人が多い日は避けたいので」


 “避けたい”という言葉の後ろに、彼の息が少しだけ細くなる。瑠璃はそれを見て、椅子を引いた。

 「じゃあ、今日から一緒に避けましょう。火曜と金曜、同じ時間。席、私が取ります」

 「……危険です」

 「何が?」

 「距離が急に縮まるのは、想定外が増えます」

 「想定外って、恋の醍醐味です」


 広士朗は目を丸くした。瑠璃はそこで、ようやく自分の口が軽すぎたことに気づいたが、引っ込める気はない。


 「……恋、って言いました?」

 「言いました。訂正はしません。だって、自分宛のポエムって、普通は自分で書くでしょ。なのに、私じゃない誰かが、今日の私を見て書いた。そういうの、ちょっとだけ、胸に来ます」

 「胸に……」


 広士朗は耳のあたりを押さえた。熱が上がっているのを隠すみたいに。

 「俺は、あなたのことを見て書いてないです」

 「じゃあ、誰が書いたんだろ」

 「……それを探すのは危険です」

 「危険でも、行きます」


 瑠璃は封筒を胸に押し当て、カップを持ち上げた。

 「乾杯。季節の風に、乾杯」

 「……乾杯、って」


 それでも広士朗は、ゆっくりとカップを上げた。ぶつけない。こぼさない。けれど、瑠璃の目だけはしっかり見た。


 「……火曜と金曜。俺、来ます。来られない時は、前日に連絡します。想定外を減らすために」

 「いいね。私は、来られない時も来ます」

 「意味がわかりません」

 「気持ちです」


 店のドアが開き、外から風が入った。紙が一枚、ふわりと揺れる。

 瑠璃は便箋の端を押さえながら、思った。


 この風は、ただの春風じゃない。

 誰かの言葉を、運んできた風だ。

 そして、隣の席の男は、風より慎重に、でも確実に、こちらへ近づいてきている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る