第2話 逡巡

 これからの打ち合わせを終えて、ソファから立ち上がった梨絵をドアまで

見送った悠美が戻って来た。

 「喬一」

 バランスの取れている体をこちらに向けた彼女が、いつもより低い口調で、

 「誰なの?」

 「知り合い。昔のな」

 「恋人だったの?」

 「そう見えたか?」

 彼女の質問に同じく質問で答えた俺に、黒目がちの瞳をすっと細めた悠美が、

 「そう見えた」

 更に、両手を腰に付けて「それとも」と続けて、

 「――ただの昔の知り合いって言いたいの?」

 「そうだ」

 「とてもそうは見えなかったわよ」

 「あのな」

 「まあ、焼けボックイに火だけは止めておくことね」

 「……何の話をしてるんだ」

 うんざりとした俺に、悠美がわざとらしい笑みを浮かべ、

 「あんたの昔の女の話」

 「何でそうなる」

 「女はこういうのに目が無いの」

 勝ち誇った仕草を見せる悠美に、「これ以上は付き合えきれんぞ」とソファに座ったまま手を振ると、テーブルの上に置かれている一枚のカードを

手に取った。

 それは、正式に俺の依頼人となった梨絵が置いて行った物で、彼女が勤めて

いる会社名と住所、電話番号などが印刷されてあった。

 「東邦物産、か」

 俺は、その手の平に収まる大きさのカード、つまりは名刺を手にしたまま

ソファを立ち上がると、自分の机に戻った彼女に、

 「悠美」

 「何?」

 「東邦物産っていうのを調べられるか?」

 名刺を差し出した。

 「……出来るとは思うけど」

 何やら不機嫌そうな顔の悠美だったが、俺の口調からそれを追い出して、

 「――対外的というか表向きのことしか分からないわよ」

 と、机のパソコンの待機状態を解除しながら、念を押して来た彼女に、

 「今の所はそれでいい」

 俺は答えた。

 裏の話が必要なのは、もう少し先だ。

 

      ○


 「……成る程な」

 パソコンの液晶モニターを目で追った俺は唸り声を漏らした。

 悠美の操作により、経済情報専門のネットワークに接続。

 そこで「東邦物産」を検索した結果が、俺の目の前に在った。

 東邦物産。

 この会社は、その名前が示す通りの商事会社であり、企業の規模としては中堅の上に位置している。

「扱っている主な品目は、電子機器と各種工作機械。 取引先は、主に中東と東南アジアか……」

 株式市場に上場している株式の値段、株価は安定。

 まあ、ここまでは特に目を引くという事でもなかった。

 だが。

「問題は、ここの資本金の増え方と」

「買収のやりかたよね」

 と、喬一と同じ画面を見ながら悠美が言葉を引き継いだ。

 この半年の間だけでも幾度も増資を受け、その度に自分より規模の大きい、

資本金の大きなライバル会社との吸収・合併を繰り返している。

「カエルが蛇を呑むって奴だな」

 つまり、この会社の背後にはかなり潤沢な資金を持っているスポンサーが控えているということだ。

「物好きな連中がいるっていうのも驚きだわ」

 俺の例えに顔をしかめながら、悠美が感想を口にする。

 「確かにな」

 買収をしたその会社の不動産などの資産を担保に、新たに融資を受け、そしてまた新しい会社を買収。

 自転車操業の典型的な例だった。

 こんな事を繰り返してる所への融資は、一つのアクシデントで全てがご破算になりかねない。

 「……ね。喬一」

 パソコンの画面を見つめていた俺に、悠美が少し迷った様な素振りで、

 「行方不明の猫を捜すのじゃ駄目なの?」

 「えっ?」

 「それも立派なトラブルでしょ」

 「まあ、そうだが」

 「やっぱり、この話は無かった事にした方がいいと思うわ」

 依頼のキャンセルを口にした悠美の、彼女の真剣な顔が俺を見ていた。

 「こんなことを繰り返している会社の人間に関わると、ロクでもないコトになるのが目に見えてるわ」

 「そうかもな」

 一口に会社を買収といっても、全てが円満に事が運ぶ筈は無い。

 莫大な金が絡んで来るのだ。

 当然、損をした者も出てくるだろうし、そんな連中から恨みを買う様なケースもあるだろう。

 「――だったら」

 「だからといって、仕事の選り好みは出来ない」

 「それは、そうだけど」

 俺の返事に応えてはみたが、まだ何か言いたげな悠美に右手を小さく振ると、左手に巻いているクロノグラフに目をやった。

 思ったより、時間が過っていた。

 「行くの?」

 「ああ。 契約、ビジネスだからな」  俺は、悠美とパソコンの前から

離れると、ソファの背に掛けられたままになっている、紺色に近い青のブルゾンを羽織った。

 今日の夕方から、彼女、梨絵の護衛が始まる。

 彼女の会社での仕事が終わる時間と、ここからの移動する時間を頭の中で考えていた俺が顔を上げると、

 椅子に座っている悠美が俺をじっと見つめているのに気が付いた。

 その瞳に浮かんでいる感情の色。

 それを見た俺は、悠美の傍に近づくと彼女の肩にそっと手を置いた。

 ほんの少しの間だけ彼女と目が合った。

 「じゃあ、行って来る」

 「気をつけて」

 俺を見て目を細め、小さく笑ってみせた悠美に手を上げて応えると、そのまま出入り口に向かった。

 部屋の外に出る。

 「焼けボックイか」

 口の中で呟いた俺は、殺風景な廊下に足を踏み出した。

 後ろ手でドアを閉じる。

 俺の背後で、ドアの閉まる音が思ったより大きく、誰もいない廊下に

響き渡った。

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