雨が降る前に
@tutima
第1話 依頼
少し前まで鉛色をしていた空が、今は明るい灰色に変わっていた。
昨日の夜からの雨で霞んでいた、高層ビルの群れが見える。
新市街と呼ばれている区画に建っているそれは、鏡の柱の様な姿を現して
いた。
雨上がりの午後。
「……」
旧市街の区画にある雑居ビル。
いつ頃建てられたのか誰も憶えていない、忘れ去られたようなビルの3階の
事務所。
その窓際に立って外を眺めていた俺は、前の持ち主が取り付けたらしい
ブラインドの隙間から、視線を下に移した。
数世紀前の石畳が敷かれた車道。
その脇に停められている一台の車に目を止めた。
シルバーグレイ、暗い銀色に塗られている2シーター、二人乗りの車体。
日産・フェアレディZ。
ロングノーズ・シヨートデッキのボディに直列6気筒エンジンを搭載しているこの車は、とっくに生産が終わっていて、今では部品の入手も難しくなり、
エンジンや車体がおかしくなって修理屋に直行する度に、「ハンドルが重い」
とか「マニュアルは面倒だわ」などと、相棒が文句を付けて来る。
確かに彼女のいう通りだ。
だが、捨てることが出来ない。
「……無理な注文って奴だ」
自嘲気味に呟いた俺の背中に、
「どうかしたの? 喬一(きょういち)?」
と、机に据えられたパソコンに何かを打込んでいた「あいつ」が話し掛けて
きた。
「ああ、雨、止んだみたいだ」
肩越しに振り返った俺がそう答えると、キーボードで動かしていた手を止めた彼女――森脇悠美(もりわき ゆみ)が、
「そう」
短く返して来た。
「また、降り出したら嫌だな」
「……あたしは降った方がいいわ」
「どうしてだ?」
肩までの髪に、ベージュのパンツとスーツスタイルの悠美はじろりと俺を
睨んで、
「晴れてると、またあんたは無茶をするでしょ」
「今まで何回ボロ布みたいになって帰って来たと思ってるのよ?」
「さあな、嫌なことは忘れるタチなんでな」
「馬鹿」
なにやら目つきに冷ややかな色が混じり始めた悠美に、俺が首をすくめて
見せた時、
事務所入り口のドアが軽い音を発てた。
ノックの音。
その音を聞いた悠美が、弾かれた様に席を立った。
ドアの向かって行く、彼女の足音に合わせて息を吐いた俺の耳に、
いい加減すり減った真鍮製のノブを捻って、年季の入ったドアを開けた悠美と、訪問者の声が聞こえてきた。
「こんにちは」
女の声。
一瞬、聞き間違いかと思った。
「吉村喬一さんの事務所は、ここで宜しいのかしら?」
その女の声を聞いた俺は、思わず振り返っていた。
それは、昔、聞き慣れた声だった。
何度も聞いていた声。
だが、それは今では決して聞こえる筈のない声だった。
「……梨絵」
「えっ?」
ドアのノブを握ったままの格好で怪訝そうに振り向いた悠美の向こうに、
俺の喉は声を発していた。
「梨絵なのか?」
もう、口にする事は無いと思っていた名前。
その名前の女が、口を開いた。
「久しぶり、喬一。 元気そうね」
俺の目に、あの時と変っていない彼女、
水無瀬梨絵(みなせ りえ)の姿が映っていた。
○
「それで――」
俺は、外見がくたびれている上に、スプリングがへたりかけているソファに腰を降ろし、
「君がわざわざこんな所に来たっていうのは、どういった用件なんだ?」
と、テーブルの向こう側で、やはりソファに座っているビジネス・スーツ姿の女、水無瀬梨絵に訊ねた。
俺の記憶にあった、長く伸ばしていた髪はショートボブに変わっていたが、
その顔立ちは昔の面影をはっきりと残していた。
そんな彼女、梨絵が首を傾げて、
「ここに来る人は、皆んな同じ用なんじゃないかしら」
薄いルージュをひいた形の良い唇で答えた。
「少なくとも、同窓会の出席案内では無いわよ」
「だとしたら」
「貴方は、ここでトラブル・シューターというか、それに近いことをやってるって聞いてるんだけど」
梨絵の、何かを探っている様な瞳が俺を捉えて、
「違うのかしら?」
「あ、いや」
俺は曖昧に彼女に返してから、言い直した。
「つまり、ここに来たのは今の俺の職業を知ってるからで、仕事の依頼だと言いたいのか?」
「そうよ、そういうことになるわね」
目を細めて応える梨絵。
ちなみに、この場合のトラブル・シューターというのは、機械の故障の原因を探るという本来の意味では無く、揉め事を解決する人間という方になる。
「……という事は、何かのトラブルに巻き込まれた、と?」
前置きの長い俺の答えを聞いた梨絵は、
「ここは単刀直入に行きましょう。貴方に私のガードをお願いしたいの。
吉村喬一さん」
「ガード?」
自分の机から、俺と梨絵を観察するような視線を向けていた悠美の顔が、微かに強張った。
それを、ちらりと横目で見てから、
「つまり護衛を?」
「そうよ」
と、頷いた彼女が、
「私は、ある企業で役員付きの秘書をやっているんだけど、最近脅迫の電話や
メールの文章が頻繁に送られて来るようになって……」
「……」
「でも、それだけなら、まだよかったのよ」
言葉を切った彼女が続ける。
「私の周りにもその、怪しい人たちが現れて」
「それで護衛を?」
「ええ。私、もう怖くて」
身体を包んでいる、紺色の地味な仕立てのスーツの前で両手を抱えて、
震える仕種をしてみせる梨絵。
「警察には?」
俺の口にした物至極当然の問いに、梨絵は声に出さずに薄く笑ってみせた。
「そうか」
愚問だった。
それが出来るのなら、とっくにそうしている筈だ。
それが出来無いからここに来たのだろう。
一体何をやったんだ。
出来るならば、そう訊きたかった。
「どうかしたの?」
梨絵が黙っている俺に話しかけてきた。
「あ、いや」
続ける。
「最近って言ってたが、原因に心当たりは有るか?」
「今、会社で新しい顧客と取引の話があるの。商談も進んでいるわ」
「成程」
俺は頷いた。
商売に絡んだ妨害。
この街では、十分考えられる話だった。
「それで、護衛なんだけど、私が会社に居る時はいいから退社した後を、ということになるわ」
仕事中は、セキュリティがあるからと梨絵。
「護衛の期間は?」
「明後日には契約が終わる予定だから、それまでお願い」
どうかしら? と、微笑が俺を見つめてくる。
「……分かった」
俺は少し間を置いてそう答えた。
「引き受けてもらえるの?」
「ああ、知らない仲じゃ無いしな」
「ありがとう。助かるわ」
「ただ、依頼の性格上、契約書の類は作らないが、それでいいか?」
「え、ええ結構よ」
有り難うと、顔を明るくした梨絵だったが、どこか違うものが瞳の中に
感じられた。
それは昔の俺が見たことも無いものだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます