終章 欺瞞の神の独り言
神々は賢くなった。
巨人は強くなった。
人間は、神に頼らなくなった。
黄金樹が倒れ、林檎が消え、神話が一度終わった世界は――奇妙に穏やかだった。
畑を耕す者は土に語りかけ、漁師は潮を読み、鍛冶師は鉄と火の気まぐれを学んだ。
祈りは静まり、代わりに工夫と試行が世界の隅々に根付いた。
ロキとアルは、村の高台に小さな家を構えた。
土を混ぜ、種を分け、水路を引き、季節の巡りに沿って働いた。
かつて林檎で神々に時間を延ばした女神は、麦の育て方を覚えた。
かつて巨人と神と人を欺いた神は、土の機嫌を読む術を覚えた。
春は芽吹き、秋は収穫祭が開かれるようになった。
冬は長かったが、死を連れて来ることは減った。
数年が過ぎ、人間の集落は広がり、村は町になり、町は小さな都市になった。
誰も口にしなかったが、世界は新しい構造を得ていた。
神は少しだけ人間に近く、巨人は少しだけ理を知り、人間は少しだけ賢くなった。
――悪くない未来だった。
ただ一つだけ、問題があった。
祈りは決して、完全には死なない。
豊作を、子の無事を、愛を、安寧を求めて
人は再び夜に手を合わせはじめた。
最初は独りの祈りだった。
次は家族、次は村、次は都市。
祈りが積み重なると、それは神性に変わる。
まずフリッグが目を覚ました。
次にトールが雷を呼んだ。
最後に、オーディンが玉座に座り直した。
「未来は閉じている。
予言はまだ失われていない。」
それは諦念ではなく、義務の発声だった。
ラグナロクは“起こる”のではなく、“執行される”終末だった。
それは契約であり、構造であり、世界の設計だった。
そしてそれは始まった。
フェンリルが鎖を噛み砕き、
ヨルムンガンドが海を巻き上げ、
トールが槌を掲げ、
オーディンが槍を取り、
ロキが炎を纏って戦場に立った。
そのただなかで、アルはイズンに戻った。
林檎は存在しなかった。
代わりに、世界の破片が彼女の上に降り積もった。
死んだ者は息を戻し、毒に倒れた者は起き上がり、千切れた肉体は再び戦場に立った。
戦争は終わらなかった。
終末が完遂できなかった。
崩壊は失敗した。
予言は踏み外された。
巨神が最後に倒れたとき、神々は神性を落とした。
祈りは消え、奇跡は土に溶け、世界は静かになった。
数日後、人々は畑に戻り、土を掘り、麦を撒いた。
誰も彼も同じ結論を出した。
――世界はやり直せる。
だから人は再び鍬を振るった。
また一から、神のいない農耕の時代を作り直した。
ロキだけが戦場に残っていた。
燃え残った灰の上で、静かに座っていた。
イズンはもういなかった。
だが麦は育つ。
選択は残った。
未来は増えた。
だからロキもまた、村へ降りた。
人として老い、人として弱り、人として語り継いだ。
彼は決して名を出さなかったが、誰もがその話を聞いた。
「冬のあとには春が来るらしい。」
それは予言でも奇跡でもなく、ただの暮らしの知恵だった。
そしてそれで十分だった。
アンブロシアの選択 小野 玉章 @Riisu
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