第8話 薄明の結末
人間達がついに暴動を始めた。
村の広場は、狂気の風に荒らされていた。
「フレイヤが疫病を撒いた」「家畜を奪った」と叫ぶ者が現れ、尾ひれをつけながら憎しみは増幅していった。
実際には、一つ二つの不運に過ぎなかった。それでも人は象徴を求める。怒りの置き場所を探す。
そしてその象徴として選ばれたのが、旅の女神フレイヤ――ではなく、フレイヤを演じるロキだった。
ロキは屋根の陰からそれを見下ろしながら、小さく舌打ちをした。
「嫉妬は重いな。惚れられるより厄介だ」
石が飛んだ。つぎは火。つぎは矢。
人間の小さな恐怖が積み重なると、神すら刺しうる刃になる。
だがそのとき、空気が変わった。
風の音がひとつ抜け落ち、世界が一瞬どこかで計算されたような整列を見せた。
そこに降り立つ影――一つ目の王、オーディン。
「止めよ。神はまだ舞台から降りていない」
彼の声は人間に届かなかった。しかし巨人には届いた。
そして、神々には命令だった。
だが命令よりも早く、さらなる災厄が降りた。
轟音とともに地が割れ、巨影が姿を現す。
深い谷に棲む巨人族の一柱、スリュム。
ユミルの命で人間界を見張りに来ていたはずの男は、しかしその目だけは別のものに囚われていた。
――フレイヤへの執着。重く、歪で、終わらない呪い。
「フレイヤ……! こんな下等な者どもに石を投げられているのか」
巨腕が振るわれる。
それは怒りではなく、恋慕の保護だった。
それでも結果は惨劇だった。
人間の身体は音もなく砕け、地に沈む。
「やめろ、バカ! 本物じゃない!」
ロキは叫び、フレイヤの姿を解き捨てた。銀の髪が乱れ、声に毒気が戻る。
「フレイヤは――女神であることをやめた。人の男とともに旅に出た。お前の想いは、もうどこにも届かない」
スリュムは血の匂いを吸い込みながら呆然とした。
「……ならば、私は何を守った」
その問いは巨人に向いたものではなく、天へ向いたものだった。
オーディンはそれに答えなかった。答えを持たない王は沈黙する。
沈黙は長く、苦しかった。
その時、小さな影が倒れた死体へ走った。
アルだった。
呼吸の消えた若者の胸に小さな手をあてた瞬間、世界の空気が震えた。
草木が伸び、血が温まり、骨がつながり、肉が閉じた。
理解も自覚もなく、その奇跡は起きた。
若者は目を開け、息を吸い、泣きながら生に戻った。
オーディンの眉がわずかに動いた。
まるで古い予言集のページがひとつ増えたのを見たかのように。
アルはふるえた声で呟いた。
「……どうして……」
ロキはその背を見つめ、長いため息とともに言った。
「思い出せ。リンゴの箱庭を守り、神々の時間を耕した者。
死を覆い、季節を継ぎ、人を循環に返す者。
――お前はイズンだ」
その名を聞いた瞬間、血潮が逆流したように記憶が満ちた。
永遠を果実に閉じ込め、小さなナイフで傷んだ部分を削り取り、神々の宴を静かに支え続けた日々。
そして、奪われた姿と名。
アル――いやイズンは、震える声で言った。
「……神に戻れと言うの?」
ロキは肩をすくめた。
「選べるならな。選べるようになったのは良い時代だ」
「戻らない」
イズンは迷いなく言った。
「私はただ……世界の終わりまで田畑を耕す。死んだものを土に返し、生きるものを育てる。黄金の果実の代わりに、麦と林檎を。宴の代わりに、収穫祭を。……それで十分」
オーディンは口を開いた。
「イズン。その選択は予言にない。世界は一つでよかった。選択もだ」
ロキは笑い、振り返らずに言った。
「予言は未来を削るためにある。俺たちは増やすために動いている」
ロキは口角を上げて、世界に向き直った。
神、巨人、人の三者に向けて声を放つ。
「聞け。神は人間になる。奪いたいなら奪え。
だが、ただ奪うだけの存在に、誰がついてくる?」
その瞬間、争いの熱は冷めた。
全員が理解したわけではない。ただ、刃を振るう理由が消えた。
◇
その日から、神々は力を薄く失い始めた。
巨人は力はあるが世界を壊しきれない賢さを持つようになり、
人間は神の加護なしに土を耕し、海を渡り、知恵で道を作った。
誰にも名付けられなかったが、後の時代は言う。
これは終末ではなかった、と。
これは――創世だった、と。
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