第2話 神の不在
黄金樹が倒れた翌日、世界はまだ気づかなかった。
恵みは急には途切れない。季節はまだ過去の惰性で動くからだ。
だが神々は違った。
宴の器は空になり、詩人の杯は冷え、竪琴は音を失った。
ニョルズが最初に異変を告げた。
彼の海は冬のように凪ぎ、風は吹かず、魚は沈黙した。
ついでフリッグが声を上げた。
慈しみの力は弱まり、宿命の糸はほつれ、予言は曖昧になった。
「イズンの林檎が……途絶えたのか?」
誰も答えない。
答えを持つ者は、いつもの場所にはいなかった。
オーディンはただ一人、玉座に留まっていた。
片目の奥には、薄い違和の光があった。
「林檎がなくとも、血と肉と骨は残る。神は死ぬだろうが、すぐではない」
フリッグは問い返した。
「では何が問題なのです?」
「選択肢が消えた」
その一言で、大神殿は静まり返った。
林檎は若さを保つだけの果実ではない。
それは時間そのもの ――神々に選択をやり直す機会を与える形の延命だった。
それが消えた。
つまり神々は「一度きりの未来」に縛られる。
人間と同じ条件に落ちる。
それは神々にとっては死よりも重い。
オーディンはさらに続けた。
「そして、黄金樹も倒れた」
その言葉は冗談の余地を許さなかった。
フリッグは息を呑み、他の神々は凍りついた。
黄金樹は世界を支える構造体ではなく、世界を選び直すための分岐点だった。
そしてユミルはそれを嫌った。
それは巨人族にとっては不公平な権利だった。
神々だけが未来を複製し、巻き戻し、取捨できる。
巨人は選べず、ただ老い、ただ滅ぶ。
そして現状――
選べない未来は、確定していく。
「行くつもりなのですね、オーディン」
フリッグは言った。
世界樹の倒れた跡へ、神々が封じた古い領域へ、そして人間界へ。
「行かねばならん」
とオーディンは答えた。
その声には王としての義務ではなく、別種の緊張が宿っていた。
まるで古い予言書の余白に書かれた言葉を思い出したかのように。
「林檎の女神は姿を消した。だが――力はまだどこかにある」
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