アンブロシアの選択

小野 玉章

第1話 冬の始まり



 世界はまだ寒く、まだ古く、そしてまだ終わっていなかった。

 氷原が音もなく裂け、その裂け目から湧き出した蒸気が霧となり漂う。巨人ユミルの影は、その霧さえ濁すほど巨大だった。声は低く、地を震わせた。


「ロキよ」


 呼ばれた男――ロキは、氷原に座り込んだまま欠伸をかみ殺した。


「こんな所に呼び出すなんて、珍しいな」


「黄金樹を切り倒せ」


 ロキは片眉を上げた。神々の象徴とも言えるその名を、巨人は抵抗なく口にした。


「理由は?」


「巨人の世界を取り戻す。恵みは偏っている。分け隔てなき生の力は神々に独占されている」


 ロキは薄く笑った。


「要するに奪われた分を取り返す、と。シンプルで結構」


「イズンは不要だ」


 ロキの笑顔がそこで止まった。冗談が割れ、沈黙が落ちた。


「殺せと?」


「そうだ」


 長い間、氷の上には風だけが吹いていた。やがてロキが立ち上がった。


「命令は承った。退屈は嫌いなのでね」


 ◇


 黄金樹は光を溢れさせながら世界を貫いていた。枝は九つの世界へ伸び、果実は神々に永きを与えていた。


 ロキはその根元に斧を当てた。刃が入るたびに光が散り、神域はかすかに疼いた。


 三度目の音が響いた頃、背後から声がした。


「ロキ?」


 振り向かなくてもわかる。イズンだった。籠いっぱいの林檎を抱えたまま立っていた。


「また林檎を盗みに来たの?」


「盗むって言うなよ。今日は仕事だ」


「仕事……誰からの?」


「ユミル」


 イズンの籠を持つ手がぴくりと反応する。


「そう……それで、私も殺すの?」


 ロキはイズンを見た。その目にいつもの冗談の色はない。


「さて、どうするかな」


 感情をあまり表立ってださないイズンの唇が震えた。言葉は落ちてこない。


 ロキは薄く笑った。


「これからやることは、ある意味殺すことと同義だ」


 指が軽く鳴らされる。


 イズンの体から力が抜け、膝が崩れる。ロキは意識を手放したイズンを抱き起こして、その額に手をかざした。


 その瞬間、世界が反転した。光は沈み、黄金樹は白く透け、林檎の赤は音もなく消え、イズンの姿は縮み始めた。


 髪が短くなり、骨が小さくなり、声帯が変わり、名が剥がれ落ちた。


 そこにいたのは小柄な少年だった。


「眠れ。目が覚めたとき、君は恵みの源じゃなく、たった一人の人間になる」


 ロキは黄金樹に視線を戻し、斧を振り下ろした。幹が悲鳴をあげ、光が散り、最後の支えが崩れた。


 黄金樹が倒れた瞬間、神域が震えた。永遠は揺らぎ、生命は地に落ち、世界の均衡が静かに歪んだ。


 ロキは少年を肩に担ぐと、倒れた木を一瞥した。


「さて。世界は一度作り直される」


 その声は誰にも届かなかった。


 ラグナロクは戦争ではなく“役割の終末”として始まった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る