第3話 恵の館
アルが深い眠りの底に沈んでいるあいだ、世界はひどく静かだった。
イズンの黄金の林檎が砕かれ、記憶ごと奪われた少年。しかし神性だけは消えず、微かな光の匂いのように世界へ漏れ続けていた。
その匂いを辿る者が必ず現れる――ロキはそれを知っていた。
だからこそ、彼は少年を抱えたままミズガルズに向かった。似た神性を宿す女神の館、愛と豊穣の女神フレイヤの館へ。
「ずいぶんと疲れているようだな、フレイヤ。」
フレイヤは視線を上げた。頬に影が落ち、黄金の髪はかつての艶を失っていた。
「……疲れてなどいないわ。私は愛を与えることが役目。」
強がり。その声は、少し擦れていた。
館の一角には人間の男がいた。フレイヤが愛し、愛し返している男――オッタル。獣の姿に変えられたこともあるほど、神々に翻弄された男だが、今は人の姿に戻りフレイヤの肩に触れていた。
ロキは笑った。
「役目、ね。だが役目ばかりに縛られていては、いずれ心まで腐ってしまう。――旅に出るといい。お前が望むなら、どこへでも行ける。」
フレイヤは何も言わなかった。しばらく沈黙が館を満たしたが、やがて小さく呼吸した。
「……オッタル。」
男は微笑み、頷いた。それだけで全てを理解しているような目だった。
女神は控えめに、自分を抱えていたものを手放すように言った。
「少しだけ……世界を見に行きたい。」
ロキは肩をすくめる。
「いい決断だ。」
翌朝、二人は旅に出た。
門が閉まり、風が静かに吹き抜ける。
その瞬間――ロキの身体がぐにゃりとほどけ、女神の形を取り戻した。
髪は黄金、瞳は薄く揺らめく翠。成熟した美しさと甘い残酷さを併せ持つ女神の姿がそこに立つ。
「さて。館は――私のものだ。」
ロキは寝台に眠る少年へ視線を向けた。
まだ覚醒は遠い。だが神性は息をし続ける。
「ここならば、追手も嗅ぎつけにくい。……もっとも、完璧ではないが。」
ロキは指先を鳴らし、花弁の結界を張った。仄かに匂うが、外へは漏れにくい。
数日後――
アルは目を開けた。
ぼやける視界に、揺れる黄金の髪。柔らかな香り。どこか母性に似た包む空気。
優しい声が響いた。
「目が覚めたのね。よかったわ。」
女神は微笑み、名を名乗った。
「私はフレイヤ。あなたをここまで運んで看病していたの。」
アルは瞼を瞬かせる。
「……女神さま……?」
ロキは柔らかく笑った。完璧な女神の仕草で。
「大丈夫。もう怖いものはないわ。」
少年は確かめるように手を動かした。
無い。記憶も、名前も、世界の形も。
ただ――胸の奥に燃える光だけが残っていた。
偽りは優しく、そして残酷に始まる。
ロキは柔らかい声で囁いた。
「あなたはここで暮らしていいのよ、アル。しばらくの間は――ね。」
それは嘘であり、真実でもあった。
こうして、偽りの神の館での生活が始まった。
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