第7話 暖炉の火の前で


 夜、随分見慣れた女神が暖炉の前で腰かけていた。


 その隣に座りながら、アルは口を開いた。


「あなたは女神さまじゃないんですね」


「まあ、そうなるな。だがこの偽装を見ろ。完璧な女神だろう?」


 優雅にふんぞり返るロキを一瞥する。


 ――完、璧?


 アルは目を伏せた。


「……あの村は荒れていました。争いも増え、病も出て……」


 女神は肩をすくめる。


「豊穣の女神がいなくなれば、そうもなる」


 暖炉の火がぱちりと弾けた。


「では、本物のフレイヤさまはどこへ?」


「人とともに旅に出た」


「では、ここにはいない」


「そういうこと」


 沈黙。

 アルは唇を噛んだ。


「このままでは、人の世は崩壊してしまいます」


 すぐ返事は来なかった。

 ロキは指先で果実を転がしながら、低く呟いた。


「……本当にそう思うか?」


「え……?」


「他のなにかに自分の人生を委ねるほど、人は怠惰なのか?」


 アルは息をのむ。

 ロキは視線を火に投げたまま続けた。


「神に祈れば作物が育つ。神に祈れば戦に勝つ。神に祈れば病も癒える。……そして神が消えれば、文句を言う。愉快な仕組みだ」


 嘲りでも侮りでもなく、ただ冷静な観察。


 ロキは果実を口に運ばず、手のひらで転がし続けた。


「だがな、オーディンは気づいていた。世界は一つの未来では持たない、と」


 アルのまぶたが揺れる。


「一つの結末のために世界を整えるやり方は――どこかで破綻する。だからあいつは未来の数を削って、最後だけを太らせようとした」


「……それは正しいのですか?」


「結果だけ見れば、賢いやり口だよ。でも――面白くない」


 ロキの声は火の音で少しだけ掻き消えた。


「俺は神だからな。退屈が嫌いだ」


 アルは少し笑った。

 けれどすぐに真剣な色が戻る。


「では、どうすれば」


 ロキはようやく果実を止め、指を離した。


「増やせばいいんだよ。未来を」


「……未来、を?」


「世界がひとつの正解に縛られるなら、脆くなる。人が世界に祈るなら、世界も人に賭ければいい」


 アルは胸に手を当てた。

 暖炉の火よりも熱い何かが残った。


「そのために……僕も、できることがあるのでしょうか」


 ロキはアルの頬に手を添える。


「お前はもうやってる。考えて、選んで、誰かのために祈った。偉いよ、アル。神でもそこまで出来ない奴は多い」


 アルは息を飲んだ。


「じゃあ、俺たちはどこへ向かう?」


 火はじりじりと薪を食い、灯りは柔らかく部屋を包む。


 アルは小さく頷いた。


「――未来を、増やしに」


 ロキは笑う。それはどこまでも楽しげだった。


「そう、それでいい。世界のために。誰かのために。そしてほんの少しは、自分のために」


 果実が転がり、アルの指先に触れた。

 その瞬間、世界が一つ、増えた。

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