第6話 疑念の狭間


 ――ここにいても、これ以上得られるものはない。


 アルは疑念を外に向けるようにした。フレイヤの目を盗み、門の前まで来た。

 屋敷の門は錆びたようにきしんで開いた。


 女神が決して許さなかった外の空気は、思っていたより苦かった。

 風は乾き、畑は割れ、子供の泣き声は喧騒ではなく怒声に紛れていた。


 アルは息を飲んだ。


 ――本当に、荒れている。


 狂気ではなく、疲労。怠惰ではなく、飢え。

 人は恵みを失うと、まず言葉を失うのだと知った。


「おい、小僧。迷ったのか?」


 声をかけてきた男は、日に焼けた頬をしていた。

 しかし目は優しい。声も穏やか。言葉に棘がないだけで救いの匂いがした。


「ええと……少し散歩をしただけで……」


「散歩って顔じゃねえな。ほら、こっち来い」


 男は笑い、アルの手首を軽く取った。

 その手は温かかった。あまりに温かくて、アルは数歩遅れて息をした。


 村には井戸があった。

 だが水は少なく、順番待ちの列は長かった。

 広場には果物の台があった。だが半分は腐りかけていた。


「どうして……こんな……?」


 男は肩をすくめた。


「さあな。豊穣の女神さまは最近なにをしてんだか」


 その声には怒りよりも失望が混じっていて、残酷なほど現実的だった。


 そのとき、空が鳴いた。


 ――カァ


 黒い影が旋回し、屋根の上に止まった。

 漆黒の羽、片方の目は光を映し、もう片方は沈黙。

 二羽で一羽、知と戦の使い。


 アルは息を止めた。


「……カラス……」


 男は視線を鋭くした。


「動くな」


 次の瞬間、男の手がアルの肩を引き寄せた。

 それは乱暴ではなく、ただ正確だった。

 風を読む兵士のように、事故を避ける父のように。


 カラスはしばらく屋根に居座り、村を双眸でなぞった。

 フレイヤの館の方向を一瞥し、やがて翼を広げて飛び去った。


 アルの心臓はまだ速い。


「……ありがとうございます」


「礼はいらねえ。あれはお前を見てたわけじゃねえ。だが、面倒は面倒だ」


 男はアルの手を離さなかった。

 そのまま村から外れ、道を迂回し、森を抜け、丘を越え、館の門の前まで来た。


 ようやくそこで、手が離された。


「……どうして助けてくれたんですか?」


 男は少し黙ってから笑った。


「お前が泣きそうな顔してたからだよ」


 アルの喉が詰まった。


 男は門を開くと、屋敷の中に押し入るように入った。

 そして歩きながら、輪郭が揺れはじめる。


 髪が伸び、背が伸び、顔立ちが整い、声が艶を帯びる。

 数歩で完全に別の存在になっていた。


 金の巻き毛、甘い香り、怠惰な女神の姿――


「……フレイヤ……さま……?」


 女神はにやりと笑った。

 今の笑みは、どう考えても女神らしくなかった。


「さて、質問だったな。『あなたは一体誰?』だったっけ?」


 言ってないが、答えを求めているらしい。


 アルは書物の内容を思い出しながら答える。


「……ロキさま、ですよね」


 女神は指を鳴らした。


「ご明察」


 声は甘く、それでいて毒があった。

 しかしその瞬間、ロキの目がアルを見て、かすかに安堵したのをアルは見逃さなかった。

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