それは愛とは呼べない

はあ、好き。と、片瀬さとは数歩前を行く草臥れた白衣の背を眺め、小さく呟いた。

春、誰もが浮かれる恋の季節である。


片瀬さとは一週間前から恋をしている。相手は彼女の通う私立高校で物理を教えている、小泉という男だ。さして接点はない。彼女は入学したての一年生であるから、当然物理の授業はないし、小泉は今三年一組の担任をしているので、滅多に一年の教室の方まで姿を現さない。

けれども、本当にひょんな偶然から、彼女と小泉は運命的な出会いをした。否、それが実際運命的なものだったかどうかは別として、さとはそう信じて疑っていない。それがただ入学式当日に校内で盛大に迷い、迷い混んだ先にいたのが小泉だった、というだけの話であっても。

そもそも、と彼女は思う。自分は決して方向音痴な方でない。地図も読めるし、入学が決まった桜木私立大学付属桜木高等学校には、入試で一度でおとずれている。高等部の校舎は、大学のキャンパスや中等部初等部の校舎と同じ敷地内にあるけれども、入試の時には迷いもしなかった。だから、あの日は特別だったのだ、と彼女は信じている。なにしろ、裏門を潜った辺りから記憶が曖昧でよく覚えていない。うっかり性に合わない新入生代表等に選ばれてしまったから緊張していたせいもあるかもしれない、挨拶の文言を思い起こしているうちにいつの間にか見知らぬ校舎の裏手に出ていた。

日差しの陰る薄暗い建物の隙間にぽつねんと立ち尽くしていることに気付いた彼女は、しばし自分の置かれた立場がわからずに呆然とし、それから何気なく腕時計に目をやって血の気が引いた。薄紅色の文字盤が示す時刻は九時十分前、教室への集合時刻は九時であることは彼女も重々承知していたから、尚動揺した。この薄暗い建物の隙間を出ようと明るい方へ向かって走り出すも、気持ちが焦っているからかなかなか広い場所へ出ない。そのうち新品の鞄は壁にするし、足はもつれて転びそうになるし、訳がわからないしで、彼女はほとんど泣きそうになっていた。そんな時だった。狭い隙間を抜け、その男と出会ったのは。

視界が開けた瞬間、まず目に飛び込んできた白衣の背中に彼女はなりふり構っていられなかった。なにしろ時間がない。だから、つい叫んだ。


「すみません!高校の入り口はどこでしょうか!」


びくっと白い肩が跳ねた。荒い息をつきながら周囲を見回す。手入れの行き届いた花壇と、魚が空に向かって水を吐き出す奇妙なオブジェの鎮座する小池が目に入る。スタンド式灰皿と質素な青いベンチが備えてあることから、ここが喫煙所であるのは容易に想像がついたがそれまでだった。ここがどこなのかさっぱり分からない。さとはいよいよ涙目になって、縋るように白衣の男を見上げ、そして固まった。

男は彼女をじっと見つめていた。古臭いデザインの銀縁眼鏡の奥、存外涼しげな瞼が酷く驚いたように見開かれている。薄い唇にはさまれた時代錯誤な紙巻煙草が落ちても、男は微動だにしなかった。


「……」


二人は生垣をはさんで暫し呆然と見つめ合うことになった。何を考えているか分からない男はもちろん、そんなに驚かれてしまうとは夢にも思っていなかった彼女も、安易に口を開く事が出来ず、小さな唇を開いたり閉じたりして様子を伺う。すると、瞬きを忘れるほどに彼女を見つめていた男の視線が、ふいに足元へ向いた。何か思案するように眼鏡の奥の視線がうろうろと地面を這い、そして、予想外の問いが投げられる。


「君は」

「えっ、あの、私、新入生の」

「君……ほんとに、人間?」

「……え?」


反射的に出た自己紹介をさえぎって投げられた質問に、彼女は二の句が継げずに黙り込んだ。

何しろ、人間であることを疑われたのは生まれてはじめてのことなのだから仕方ない。そもそも、この世に人語を放す生き物は人間しかいないのだから、彼女は当然人間である。なぜこの人はこんなに急いでいる時にそんなことを聞くのだろうかとサトは半ば呆然と首を傾げた。男もそれにつられたように首を傾げかけ、まるで夢から醒めたようにはっと息を飲む。


「……今の忘れて」


少しの間の後、男はそう呟いて白衣のポケットからメモ帳を取り出した。紙面にボールペンで何かを書き込むと、一枚破いて彼女の手に押し付け、じゃ、と片手を上げて去っていく。押し付けられたメモには、ここから高校の昇降口までのルートが記されていた。

茫然と立ちすくむ彼女の耳に九時を告げるベルが鳴る。

つまりこれが、運命的出会いだった。少なくとも、彼女にとってはそうだったのだ。



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