音部探偵事務所2:掛川博士の研究室の巻

 「それでは、早速ですが詳しくお話をお聞かせ願えますか。お嬢さんはいつ頃からいなくなられたのです。」

 掛川は、研究のためか心労のためか、もう何日も満足に睡眠を取っていなさそうな、青黒い顔をしていた。心中ではよほどせわしく考えを巡らせているのか、あるいは極度の疲労か、視線はコーヒーを並べた応接間のテーブルの一点からじっと動かなかったが、しかし目だけは「お嬢さん」という言葉に鋭く反応し、探偵の顔にすがるように吸い付いた。やがて、探偵の言葉にやや遅れて頷くと語り始めた。

「娘は−忘れも致しません、あれがいなくなりましたのは三年前の十二月のことです。」


「わたくしが、妻の浪子に先立たれましたのは、もうあれが随分小さい時です。私の手元におきますうちに、真莉子はそれはもう妻そっくりになりまして。手前味噌のようですけれど、おれの子があんなに美人になるとは、と何度思ったものでしょう。しそういう娘ですから、私にとって、あの子を眺めるのがどんなに心の慰めになりましたことか、お分かりいただけるでしょうね。」

「ただ、男親というものはどうにも不器用なものです。二度ばかり、あれのためにと思って後妻を持とうとしたんですが、娘はいずれの女性ともしっくり来ませんでしてね。あるいは、健気な子でしたから、私がお父さんのためにいるんだ、とも思っていたのでしょうが、再婚相手候補の女性に張り合うような態度を見せまして。真莉子には困らせられたことも一度や二度ではございません。そうはいっても、可愛い我儘です。結局、後家は取らずじまいでした。」

「真莉子は、そりゃあもう長い間、私のと私の研究のために、献身してくれました。あれが高校の頃にはもう、化学の知識は学級クラスの、いいえ、学年の誰よりよくわかっていて、私を手伝い始めさえしたのです。透明薬の完成は、真莉子の協力あっての賜物です。ところが、私は研究に明け暮れるでしょう。ですから、どんなに分かってくれているとしても、やはり若い魂の燃えるのは抑えられなかったんでしょうね。」

「三年前の十二月八日の朝、わたくしはいつものように、自分の研究室へ参りました。すると、前日作っておいたはずの薬が、なかったんです。確かに自分の手で、ビーカーから、ガラス棒を伝わせて薬びんに入れておいたのが…自分の手には、その液体の重さも、ガラス棒の冷んやりした、直線的な感触も、ガラス瓶の硬質な感じも生々しいばかりに残っているというのに…」

「室温で蒸発するような薬ではありませんし、どこかに間違ってこぼれていやしないかと何度も確かめました。でも、そもそも密度の高いゴム栓を固く閉めた上に、私だけが触ることのできる、鍵のかかった戸棚に入れてあったのです。そう、これは機密情報ですから…娘にさえ、これには触ってくれるな、と、なんでも甘くしてしまう私ですけれど、それだけは厳しく言い渡してあったのです。鍵の管理も、自分でしていたんだのに…」


「お嬢さんが、鍵や戸棚に触れたり、開けたりすることは、本当におありにならなかったのですか。」

「ありませんでした。少なくとも、その日までは一度も。鍵はこれ、」

と言って、博士は自分の白衣の懐から、小さな鍵を取り出した。

「これが戸棚の鍵でして、ご覧のように肌身離さずにつけております。まずこれを開けまして、その中の小箱に薬があるんですが、その小箱は今度ダイヤル式で、数字を揃えませんと開けられないのです。」

「その番号をお嬢さんにお教えになったことは。」

「ございません。」

と、掛川は妙にキッパリとした口調で言い切った。

「ございません、というのは、実は…家内の誕生日に、亡くなった時の年齢を加えたものでして。化学者のくせに、とお笑いなさるかもしれませんが、こうすると妻が守ってくれるような気がしたものですから。それをいうのが、なんとなく気恥ずかしくて、娘には一度も伝えていないのです。」

 笑いませんよ、と音部は言いながら、コーヒーカップを口に当てた。何か口を湿らせるものが欲しかったのだ。隣で、高藤もカップを持ち上げたらしい音がした。

 まったく奇妙な感覚だと言わざるを得ない、と音部は内心でつぶやいた。というのは、この家には女性の気配が一つもないのである。妻がいた、娘がいた、と言いながら、その写真ひとつ飾られていなかった。それを尋ねれば、きっと博士は、それは辛い思い出を思い出してしまうから片付けた、と言うだろう。しかし、もっと他のこと、たとえばそれこそ棚のように高いところにある物の位置は、男性には届きやすいだろうが、女性ならつま先立ちを強いられるような高さにあった。あるいは小物、具体的には食器やレースのカーテンなど、たとえ女性がいなくなったとしても習慣的に置いておくままになりがちな、いわゆる「家庭的」とか「女性的」と言われそうな品々さえ、この家にはなかった。化学者の家と言って十分過ぎるくらいに、この家は無機質な空間だったのだ。

 一方、この話をするより前に通された研究室というのは、きちんと整頓されてはいるが使い込まれており、長年、しかも大抵は男の手で管理されていることが明らかだった。目を閉じれば博士の体温がはだえに伝導し、かつは体臭まで鼻腔に昇ってきそうなほど、この部屋の主の存在感があったのである。

 それでいて、博士の話は、夢物語的でなく具体性を帯びており、しかも筋道だっていた。

「その瓶のことが分かってすぐ、私は娘を呼びました。ところが、娘は返事をしなかったのです。いつもなら、自分の部屋からすぐに飛んでくるのに…ですから、私は娘の部屋へ、そう、二階にあります部屋へ、向かったのです。」

「ところが、お嬢さんはいなかったのですね?」と、今度は高藤が尋ねた。堪え性のない彼としては、ここまで随分ジリジリと待っていたらしい。そうです、と、またもすがるような目つきを今度は助手の方へ向けて、掛川は続けた。

「娘には、真莉子には、随分手を焼いたこともありましたけれど、そうはいっても不良ではございませんでした。すなわち、夜遊びをしたり、家を抜け出すような子ではなかったのです。それですから、ああ、薬を持って、しかも一晩のうちに家出をしてしまうなんて、そんなことは考えられない。残る可能性があるとすれば、彼女が自分で薬をあおり、透明になってしまったことでしょう。」

「なるほど。」と、再び探偵が言葉を繋いだ。

「それでは、今もお嬢さんが透明になっていて、そしてどこかにおいでであるとお考えなのですね?」

「そうですそうです。ああ…私は確かに、とある筋に頼まれて…薬を開発していたんです。それは、報酬が良くて…娘を楽させてやれるかと思ったから受けたんです。それだのに、どうしてこんな…おっしゃる通り、私は今でも娘がその辺にいるんじゃないかと思っているんです。だから、ここから離れられないのです。いつか娘が、透明かもしれないし、姿が見えているかもしれませんが、娘が帰ってくるんじゃないかと思って。」

「警察には言わなかったんですか?」

「言いましたとも。言いましたが、真剣に調査してくれない上に、それ以上話をまともに取り合ってくれないのです。娘さんはいませんよ、の一点張りで。いないならいないで、なぜもっと探してくれない?…なぜですか?私が組織と関連するからですか?こんなことなら、連中と係り合いになどならなければよかった…」

 掛川はそこで悶えるように頭を抱え始めたので、探偵はもう2、3点質問をしたら切り上げどきだな、と判断した。

「掛川さん、お疲れのところお気の毒ですが、もう少しだけ質問にお答えいただけませんか。」

「なんでしょうか…」

「その、薬を入れていた小箱の番号は、いくつなんですか。覚えてらっしゃいますか。」

「ええ、0458です。妻の誕生日が四月の二十一日、それに、亡くなったときの年齢が37歳ですから…それを0412に足したんです。」

「なるほど。では、お嬢さんのお誕生日は?」

「九月三日ですが…」

「お嬢さんの、いなくなられた時のご年齢は。」

「二十三歳でした。」


探偵のこの質問は、妻の誕生日や年齢を聞き出すのではなかった。それよりも、回答の瞬発力を見ていたのである。もし「妻」という存在が幻か妄想であったら、あるいは虚言であったら、咄嗟に聞かれてすぐとは答えられない。多かれ少なかれ、言い淀む瞬間がある−

 というのは、一般的な理解だ。実際には、男性は、結婚相手の誕生日などなかなか覚えていないことの方が多い。交際の記念日や、誕生日すらもまともに答えられるのはレアケースであり、もし何も見ずに答えられるのであればかなり几帳面な性格だと言われる。

 一方、また別の理由、たとえば健忘症などで事物を忘却してしまった場合、しばしば返答をはぐらかしたり、「答えたくない、なぜ答えねばならないんだ」と返答行為そのものを拒否することがある。これも、「自分が忘れており、それを忘れてしまった原因が不明である」ことに対処するために取られる反応だと言われる。

 こうした経験から、掛川のように即答することを音部は怪しいと思ったのだった。言ってしまうのであれば、この手の込んだディテールこそは作り物であると判断したということだ。皮肉なことに、周囲の環境から無意識に受け取る情報よりも、強く意識された情報、具体例で言えば「言おう、言おう」と常日頃から思っている内容である方が、瞬間的な出力では優位に立つことがある。

 

「掛川さん、大体お聞きしたいことは伺えました。ありがとうございます。」


 掛川にはそもそも妻子がいないが、それを隠すために、あるいは「居る」と思い込もうとするためにかような詳細を創作している−

それが、音部の睨んだところだった。

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