2番目の君へ

真夕

2番目の君へ

窓の外の景色がゆれて、糸を引くように流れていくのを見ていた。

平日の昼というのに、車内はやや混雑していて、他人の湿度を少し感じる。乗客が出入りするたびに、立ち位置がふらふらとした。

ポケットの中で、スマホをにぎりしめていた。鳴ることがないことは分かっていたが、どこか期待している自分がいる。


「午後からは、二人とも予定空いてるんでしょう。なにも特別な日にしなくてもいいんだから」母の声がした。

「…うん。ママはどんな感じだったのかな」

「さあどうだったかしらね。もう何年も前のことだから。でもね、伊織ちゃん、ママにとっても同じようなことだったの。だから――」

とくに気になったわけでもない。海辺に面したアウトレット施設がすぐに視界の中から引っ込んでいった。

「ごめん。えっとそれでなんだっけ」

「なんでもないのよ。伊織ちゃんが好きなように。何か困ったことがあればいつでも連絡しなさい。なんならこのまま一緒に家に帰ってもいいのよ?」

「んーそれだけは…」


普段は見ることがない車内広告、規則正しく並んだ吊革、そして人、たくさんの人。

少しよそ行きのネックレス、いつもきれいだなって思ってた鼻筋、目じりに増えた小じわ。

母の姿だけが浮かび上がって見えていた。

「私、絶対ママよりも身長高くなるって思ってたのにな」

母が何かを続ける前にすぐ言った。

「なら、文句はパパに言いなさい。よしよしし過ぎてそうなったのなら、それはママのせいよ」

「なにそれ。ママってほんとうにおもしろいよ。ほんとうにいつも――」

「はいはい、続きは明日ちゃんと聞いてあげるから。それとも、本当に私と帰るの?」

冷たい空気がぞわぞわと足元から這い上がってきていた。私は、ようやく実家近くの最寄り駅に到着していたことに気づいた。頭では覚えているのに時間だけが飛んだ気がする。


手を振って、そのまま母を見送った。

ようやく車内がまばらになってきて、両手が空いた。こういうときに、どこを見たらいいのか分からなくなる。スマホを開いて、降りる駅を確認した私は目を閉じることにした。


とんとんと背中を小突かれた気がした。また時間だけが飛んでしまっている。気づけば、駅のホームに立っていた。幸いだったのは、知らない駅ではなかったこと。大きく乗り過ごしていたわけではなかったこと。まだ扉は開いていて走れば間に合うのは分かっていたけれど、待っているのもまあ悪くないかなって思った。


吐く息が白かった。ベンチは金属みたいに冷え切っていて、思っていたより風もずっと強い。首下までで切りそろえていた髪が、ふぁさっと揺れた。

「さむいねー」

さむいねー、と心の中で繰り返した。私が呼ばれたわけじゃないのに。

「あーマジもうむり」

空気がざわざわしてきて、もうこんな時間になっていたんだと気づいた。ローファーの足音、見たことがないキーホルダー、今ではもうどこに閉まったのかも分からないプリーツスカート。

「ね。もうちょっと早かったら、さっきの電車乗れたのにね」

全然知らない声なのに、たしかに知っている会話だった。


そこから何かあったかと言うと、とくに何もなかった。

いつもの道を、いつもの歩調で歩いた。そういえばと、スマホを確認してみたけど、やっぱり連絡は来ていない。他にもメッセージが届いていたけど、なにかちがう気がしてやめた。

空が暗くなるにつれて、突然にょきにょきと街灯が生えてきた。まばらに軒先の電灯がぱちぱちとついていく。なんだか逆再生を見てるようで、頭の中がぐるぐるした。

歩きながら、ふと母とのやり取りを思いだした。せめて、どこかに寄って買い物をしていきたい。たぶん特別な一日だとは思われないけれど、このまま家に帰る気にはなれなかった。もうとっくに、指先もかじかんでいて感覚もなくなってきている。私は、手近なスーパーに入ることにした。


正直に言うと、失敗したと思う。いつもの人たち、仕事帰りの人たち、学校終わりの学生たち、そして私。ようやく温まることができたはずなのに、ホッとするよりも、早く出ていかなればいけないような気持ちになった。店内放送に足を急かされながら、じりじりと進む。やっぱりハンバーグにしようかなと思ったけど、もう一周する気力はなかった。


品出し中の店員の後ろを、少し無理にすり抜けようとした。店員は、私に気づいてスペースを空けてくれる。

「あ、遠坂さんじゃない。今日は出勤じゃなかったよね?」

「お疲れさまです。今はお休みをいただいていて」

少し高めの声を意識してしぼり出した。見たことはあるけれど、名前も知らない同僚。単に私が思い出せないだけかもしれないけど、それから店員はすぐに笑顔を浮かべた。

「遠坂さんたら、結婚されてたのね。どおりでシフトの時間帯が被ってないわけだわ」

愛想笑いと、つい口元に当てていた左手が離せなかった。どうして、なんて思えない。店内BGMが、勝手にループし始めた。

「ごめんなさいね。引き止めちゃって。また、今度お話聞かせてね」


自動ドアから押し出されるように放り出されて、店の看板を見上げた。

私、結構前から報告してたはずなんだけどな。ただ、傷つけたくなかったそれだけ。たまたまそういう人だった。そうにちがいない。

まだ夜じゃないのに外はしっかり暗くなっていた。買い物袋が右手に食い込んで重たい。


「えみちゃんがね、今日ね――」

声につられて視線を向けると、小学校低学年くらいの女の子が揺られていた。隣には、サラリーマン風の父親らしき人。女の子の視線は前を向いていた。じんわりと胸に流れる感覚。直感的に、優しいパパだなあと思った。二人はそのままゆっくりと通り過ぎて、私は慌てて歩き出した。


予定が押してしまって、時間取れなくてごめんな。

家で待ってるから、帰ってきたら二人でご飯でも食べよう。


二人でいつもどおりの食卓を囲む。彼の声を聞きながら洗い物を手早くすませた。やっぱりハンバーグにしてよかったと思う。彼方がお風呂掃除をしている間に、さらっと明日の予定を確認した。彼の足音が聞こえてきて、私はそれをそっと鞄にしまいこむ。

「先にお風呂にするか?」

「どっちでも大丈夫。かーくんは?」

「じゃあ少しゆっくりしてからにしよう」

彼方がテレビのリモコンを探し始めた。

「かーくん、そこにあるよ」

私が指差すと、ありがとうなと返して、ソファの左側をとんとんと叩いた。


電子音と機械的な声が時間が来たことを知らせた。

「明日も早いもんな。俺、先に入ってくるよ。すぐ出るし、もう伊織も用意しといていいよ」

彼方は立ち上がると、うんと背伸びをした。

「かーくんの着替えも出しとくね」

「あ、そうだな。助かるよ」


誰もいない寝室に入り電気をつけると、一瞬だけ視界がぼやけた。朝起きてからそのままの形の布団と枕が白くてまぶしい。

彼方のパジャマがどうしても見つからなかったので、適当な衣服を見つくろうことにした。それから、私は布団を整えて、ジャスミンのアロマを焚いた。最近はとんと使っていなかったけど。


パジャマ姿の彼方がドアを開けた。

「伊織、ここにいたんだな。自分の分は先に用意してたって、ちゃんと言えばよかった。ごめん」

 私は思わず尻もちをついてしまい、彼方を見上げる形になっていた。彼方が腕を掴んで、起こしてくれる。

「ううん、全然。ちょっと驚いただけ」

「よかった。お湯、冷めるから」

「うん、少ししたら行くね」

 彼方の気配が離れていくのを感じて、私はゆっくり動き出した。


いつもとちがう、私を締め付ける感触を浅ましいと思った。こんなことをしても、意味なんてないかもしれないのに。たぶん、このときだけは特別になろうとしていた。

濡れた前髪がぺたりとおでこに貼りついていた。洗面所はひやりとしていて、このままではよくないと思う。

心臓の音が、一度壁に反響してから耳に侵入して、頭の中を何度も揺らした。首から下が、自分のものではなくなった気がしていた。


リビングから、私を呼ぶ声がする。私は、歯ブラシを片手にそれに返事を返した。音が、止んだ。

ふと洗面台に視線を落とすと、彼方の歯ブラシが倒れかけていた。私は、そっとそれを元の位置に戻してから、鏡を見た。

口をゆすぎ、軽く前髪を整える。

鏡を見るのが、なんとなく嫌だった。


私は、ゆっくりとリビングに戻った。

「かーくん、さっき呼んだのって」

「ついさっき、伊織のスマホが鳴ってさ」

彼方は、ソファに座ってテレビに視線を向けたまま、私のスマホを差し出した。ちょうどCMに入ったところだった。

「ふーん。会社の人かな」

「かけ直さなくていいのか」

「うん。あとで確認しておく」

私は、画面も見ずに、しまいこんだ。たぶん、母親からの着信だろう。私は、彼方の隣に座った。

テレビの音がする。話しかけてはいけない決まりなんて作っていないのに。それでも、声をかけたくなかった。

「伊織、俺たち結婚したらさ」

「急になに」

胸の中が、ひやりとした。

「ちがうな。結婚しても、こう、変わらないよな」

視線を感じた。私は、なぜかテレビから目が離せなかった。

「そうかもね」

彼方がゆっくり離れていくのが分かった。


「私ちょっとお母さんに電話してくるね」

そのまま立ち上がりリビングを出ようとしたが、彼方が私を呼び止めた。

彼方が、手を降っていた。

「俺、先に寝てるから。あまり夜ふかしはするなよ」

「わかってるば。おやすみ、かーくん」


電気が消えた廊下に出て、スマホを取り出し確認する。着信履歴には、やはり母親の名前が表示されていた。私は、自分が少しだけ安心しているのを感じて嫌気がさした。

あまり気は乗らなかったが、電話はすぐにつながった。

「こんな時間にどうしたの」

「夕方から電話してるわよ。でも結婚前夜だものね。今日は、彼方くんとどこか行ってきたの?」

「そんなことを聞くために電話してきたの」

私は、つい体の力が抜けて廊下に座り込んでしまった。お尻と足が冷たい。

「そんなことって。彼方くんのこと嬉しそうに話してくれたじゃない。彼方くん、良い子そうだったし、気になるわよ」

「行ってない。予定が合わなかったから」

「あらそうなの。結婚前日なのにもったいない」

「別にそんなことないよ。用件はなに」

私は、これ以上話したくないな、と思い始めた。リビングのドアの隙間から光が漏れている。

「明日着るドレスのことなんだけど――」

スマホを耳から離すと、テレビの音だけがかすかに聞こえてきた。別に、そのままリビングで話せばよかったと思う。ここだと、お腹も足も冷えるし。


私は、母親との通話を終えたころ、廊下がまっくらになっているのに気づいた。立ち上がると、軽く目まいがした。静かすぎて、頭の中で音がする。

寝室に入ると、すでに彼方がベッドで横になっていた。2年前に買ったダブルベッド、私はいつも左側だった。たぶん、彼方は先に寝てしまった。

時計の音と彼方の息づかいが交互にしている。天井の模様だって、いつもと変わらないと思う。


眠れない夜は、これまでもあったし、眠りたくないと思った夜は、今でも覚えている。このまま朝まで起きていようか、なんて考えたけれど。

私の前から、一つずつ光が消えていった。

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2番目の君へ 真夕 @mayu_106

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