幼少期

第1話 自由奔放な女

私の父親は、母と生まれたばかりの私を捨てた。

大学在学中に同期生のろくでなしの男とコトにおよんで母は私を身ごもった。そのときそのときが楽しければそれでいい母に、ゴムを付けさせるなんてことは考えられなかったのだろう。

ろくでなし(父親と呼ぶのも嫌なのでこう呼ぶ)と母は、私ができちゃったことで大学を中退した。しあわせな家族を築いていこう、なんてほざいていたらしい。驚くほど計画性がなく、ただ行き当たりばったりなくせして綺麗ごとだけはいっちょ前だった。

暇な時間はパチスロに明け暮れていたろくでなしには、もちろん貯えなんてなんにもなかった。幸せをお金で計るのはいやしいとは思うけど、でもあった方が幸せになれるのは間違いないし、そもそもお金がなければにっちもさっちもいかない。

子どもが生まれるのだからお金はいくらあっても足りないはずなのに、ろくでなしはやっとこさありついた倉庫整理の仕事を初任給をもらってあっさり辞めた。

「オレにはもっと才能や能力に見合った仕事があるはずだ、って感じのこと言って初任給で買ったギター弾いてた。そういうところがかっこいいと思っちゃったの」

母の思考回路はさっぱりわからないが、ともかく大ピンチ。愛があれば大丈夫なんてメロドラマの中だけの話で、その日食うものに困ればワラにもすがるしかない。ギターをいくら爪弾いたところで腹は膨れない。

大学中退の若い男女が泣きつく先はなにか。親だ。ろくでなしの家はなにやら訳ありだと言うので、母の家に泣きついた。

祖母は母が大学に通い始めたころに病気で亡くなり、祖父はそれから田舎の広い家でひとり暮らしをしていた。

祖父は祖母の菩提を弔いながら、代々続く農地で米作りに励んでいた。黙々と勤勉に実直に。雨の日も風の日も、宮沢賢治の詩のように祖父は休むことがなかった。

大学に通う娘が苦労しないために、懸命に働いてきた。

大学に入ってひとり暮らしをする母を送り出すときに祖父は「何かあったらいつでも帰ってこい。いつでもいつまでも、ここをお前の帰ってこられる家にしておくからな」と言って送り出していた。

なんとも祖父らしい、静かな決意に満ちた言葉だと思う。

それがまさか、帰ってきた娘の腹が大きく膨らみ、その隣で金髪の見るからに軽薄そうな男がヘラヘラ笑っているのは、予想外に過ぎた。

祖父はこれ以上ないくらい険しい顔をして母とろくでなしを迎えた。肺から根こそぎひねり出したような大きくて深いため息をついて、二人のダメ人間をにらんだ。しかしいくらにらんだところで事態は好転することはなく、生まれてくる孫のために仕方なく家に住まわせてやるしかなかった。祖父がいなければ私は、夕方のニュースで報道される悲劇のひとつになっていたことだろう。

「あまりのストレスで頭痛がしたなんて、あれが初めてだったな」

祖父は後に苦々しい顔で私に語った。私が悪いわけでもないのに、その血を引いていると思うとむちゃくちゃ恥ずかしかった。

頭がクラクラしつつも祖父はふたりの話を聞いた。そしてこれまでで一番大きな雷を落としそうになり、祖母の仏前だとぐっとこらえて未熟でどうしようもないふたりの関係を了承した。

新しく生まれてくる命を捨てろなんて、やわらかく微笑む祖母の遺影の前ではとても言えなかった。そもそもその選択ができる時期はすでに過ぎていた。

ちゃらんぽらんであんぽんたんに見えるこの男も、子どもが生まれればきっと変わるだろう。父親としての自覚を持ってくれることだろう。祖父は自分をかえりみてそう信じることにした。

そうして私は生まれて、それから間もなくしてろくでなしは蒸発した。

逃げ出したのだ。生まれたばかりの私と、母親になった恋人と、父親としての責任とか、そういった重たいものたちから。ろくでなしは見た目はいいが弱い人間だった。主にメンタルが貧弱過ぎた。

「でもアソコだけは立派だったんだよねえ」

若い日の母の基準だと、男の価値の大半はそれで決まってしまうようだった。火遊びをするにしても節度くらいは守ってほしいものだ。私の言えた義理じゃないけど。

ろくでなしはちょっと出かけてくると言って、コンビニに行くような格好でぶらりと家を出て、待てど暮せど帰ってこなかった。それからずっと音信不通。共通の友人に聞くも誰ひとりとして彼の居場所に心当たりはなかった。

捨てられた母と乳飲み子の私には、祖父を頼るしかすべがなかった。

母は祖父の仕事を手伝った。と言っても私の子守をしながらだから、それほどハードなことはできない。母が任されたのは主に家事だ。

しかし一人暮らしをしていたにも関わらず、あまやかされて育ってきた母は家事をほとんどできなかった。米を炊かせれば半生かベチャベチャで米を研ぐことすら知らなかった。味噌汁はただお湯に味噌を溶かせば味噌汁の味になると思っていた。

掃除をさせれば余計に散らかり障子に穴があく。洗濯をさせればシワも伸ばさず干してちょっとくらい生乾きのままでも取り込む。裁縫をさせても縫い目は雑でいつ指に穴があくかと危なっかしくて見ていられない。

「いい年してこんなこともできんのかお前は!」

「しょうがないでしょう!誰も教えてくれなかったんだから!」

母がなにか失敗するたびに、祖父は私の目の届かないところまで母を引っ張って叱った。しかしそこは古い日本家屋、地声の大きな祖父の叱責も、母のそれに言い返す甲高い声も私に届き、それがやむまで耳を押さえてやり過ごしていたのをぼんやり覚えている。幼い私の中で、寡黙でニコリともしない祖父の印象は、母を叱責するときの声だけが強くなっていった。

祖父にとってはこれほどの誤算はなかっただろう。まさか自分の娘が、これほどまでに家事ができなかったなんて。

がさつで大雑把な母と、几帳面で頑固な祖父は子どもの目から見ても相性が悪かった。

例えば祖父には朝食の後には緑茶、夕食の後にはほうじ茶を飲むという習慣がある。どの時期にも熱々のやつを。母にもそのように伝えて頼んでおいた。一日の始まりと締めくくりになる、祖父の大事なルーティンだ。

祖父は淹れ方にこだわりがあり、お湯の温度から茶葉の量に蒸らす時間、注ぎ方まで細かく母に指導した。母にそんな面倒な作業、無理に決まっているのに。自分が興味のない三工程以上の作業は、母の中ではめんどくさいと放り投げられる。

茶葉を間違えるのは日常茶飯事で、当然のように祖父が伝授した淹れ方もしない。さらには勝手に茶葉をブレンドしたり、元は同じ葉っぱだからと自分の好みに合わせて紅茶を淹れたりしていた。

「もういい!俺がやる!」

「なにそれ、人にやれって言っておいて!昔からほんと自分勝手!」

母になにか仕事を教えて任せてしばらくは様子を見守る祖父だったが、見るに見かねてそう言うパターンが多かった。そうしてけっきょく、大半の家事は祖父がこなすはめになった。そう言わせる母の策略だったとしたら見事なものだが、できないことをなじられるたびに影で悔し泣きしていたし、母なりに真面目にやっていた結果だったのだろう。

母と私がやってきて祖父の負担は増える一方だった。祖父は育児にも口を出したそうにしていたが、さすがにそこはこらえていた。しょっちゅう言い合っていても翌日になればケロッとしていたのは、一線を越えるようなことはお互いに言ってこなかったからだろう。

そうして月日は流れ、私は食いしん坊な三歳に成長していた。あんなのに育てられてもお前はこうして成長したのだから母親というのは不思議なものだ、と祖父はしみじみと言った。しかし三歳になったばかりの私はどう答えていいかわからず、母のように怒られてしまうと思って泣き出した。母が飛んでくるまで祖父はおろおろするばかりだった。

三歳になった私は保育園に通うことになったので、その間は母も祖父の農作業を手伝うことになった。何はともあれこれで一段落だし、少しは生活も落ち着くだろうと祖父はほっと息をついた。

それが新たな波乱の幕開けになるとも知らずに。

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また会えるから みそ @miso1213

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