第1章第8節 虚像の完成と、王宮からの招待状

 魔狼の死体から立ち昇る黒煙が、スラムの夜空に溶けていく。

 爆心地となった廃墟の前には、いつの間にか数百人規模の人だかりができていた。

 スラムの住人たちはもちろん、騒ぎを聞きつけた冒険者たちや、王都の警備兵までもが遠巻きにこちらを窺っている。


「……あれは『黒の魔女』アリアか?」

「いや、その隣にいる男を見ろ。あいつが指示を出していたぞ」

「『待て』の一言で魔狼を止めたってマジかよ……」


 ヒソヒソという囁き声が、次第に大きくなり、熱を帯びていく。

 レンはその中心で、内心頭を抱えていた。


(まずい。非常にまずい。目立ちすぎた)


 レンの理想は「そこそこの小金持ちになって、安全な場所で隠居すること」だ。

 だが、今の状況は完全に逆走している。

 セシリアが拾った鉄パイプを捨てて跪き、アリアが恍惚とした表情でレンの裾を掴み、ガレスが周囲の群衆に向かって何やら演説を始めている。


「静粛に! 我が主レン・クロウリー様は、この街を脅かす魔狼を討伐された! その御力、もはや隠す必要なし!」


 ガレスの声が朗々と響く。

 おい、勝手にカミングアウトするな。

 だが、群衆の反応は劇的だった。

 誰かが拍手をした。それが波紋のように広がり、歓声へと変わっていく。


「レン! レン! レン!」


 スラムの住民たちが名前を連呼し始めた。

 彼らにとって、魔物は恐怖の象徴であり、それを一撃で葬ったレンは救世主に見えるのだろう。

 特に、日頃から虐げられている彼らは「自分たちの街から英雄が出た」という事実に酔いしれている。


「……レン様。民が、貴方様を求めております」


 セシリアがレンを見上げ、真剣な眼差しで告げる。

 違う。彼らは「娯楽」と「希望」という名の麻薬を求めているだけだ。

 だが、ここで水を差せば、熱狂は一転して失望へ、そして攻撃へと変わる可能性がある。大衆心理とはそういうものだ。


 レンは覚悟を決めた。

 震える膝に力を込め、マントを翻して群衆に向き直る。

 そして、右手を高々と掲げた。


「――この勝利は、僕一人のものではない」


 レンは静かに、しかし威厳たっぷりに語りかけた。


「勇気ある騎士セシリア。深淵を知る魔導師アリア。そして、共に立ち上がった君たち全員の勝利だ」


 『一体感の醸成』。

 自分を崇めさせるのではなく、彼らを「共犯者(チーム)」に引き込むことで、敵意を消し、支持を盤石にするテクニック。

 スラムの住民たちは、自分たちが肯定されたことに感動し、さらに大きな歓声を上げた。


「うおおおおお! レン様バンザイ!」

「俺たちもやるぞ!」


 熱狂の渦。

 その光景を、レンは冷ややかな内心で見つめていた。

 (……よし。これで当面、スラムでの安全は確保できた。あとは上手くフェードアウトして……)


 だが、運命はそれを許さなかった。

 人混みを割って、一隊の武装集団が現れたのだ。

 煌びやかな鎧。胸には王家の紋章。そして、先頭に立つのは見覚えのない、しかし明らかに高貴な身なりの男。


「……そこまでだ」


 男の声に、歓声が波が引くように静まった。

 ガレスが目を見開き、呻くように名を呼ぶ。


「……宰相、ゼクス……!」


 その名に、セシリアが即座に反応した。

 殺気を放ち、レンの前に立ちはだかる。

 宰相ゼクス。この国を腐敗させ、ガレリア帝国に売り渡そうとしている元凶。五十代半ばの、狐のように細い目をした男だ。

 その背後には、完全武装した近衛騎士たちが控えている。


「騒がしいと思えば……。お尋ね者のセシリアに、追放されたガレスではないか。こんなゴミ溜めで徒党を組み、何を企んでいる?」


 ゼクスはハンカチで鼻を覆いながら、汚いものを見る目でレンたちを見下した。

 完全に「格下」を見る目だ。

 だが、レンの『観察眼』は、ゼクスの微細な反応を見逃さなかった。


(……左手の小指が痙攣している。視線が、僕ではなくアリアの方へ頻繁に向いている。そして、足先が外側を向いている。……逃走の準備だ)


 ゼクスは余裕ぶっているが、内心では焦っている。

 魔狼を一撃で消し飛ばしたアリアの火力と、それを従えるレンという「未知の変数」に脅威を感じているのだ。


「企みなどありません。我々はただ、害獣を駆除しただけです」


 レンが一歩前に出た。

 セシリアが止めようとするが、手で制する。


「ほう? 貴様が噂の男か。……見れば魔力も皆無、ただの一般人ではないか。なぜこのような真似ができる?」

「……種も仕掛けもありませんよ」


 レンは両手を広げてみせた。


「ただ、少し『目がいい』だけです。……たとえば、閣下が今朝、帝国の使者と会談し、『ある書類』にサインをしたことなども、手に取るようにわかります」


 ハッタリだ。

 だが、根拠はある。ゼクスの右手中指にあるインクの染み。それは王宮で使われる公式インクではなく、帝国特有の「紫紺(ロイヤルパープル)」のインクだ。そして、彼の袖口から微かに香る、北国特有の香辛料の匂い。

 これらを組み合わせれば、「帝国と接触した」という事実はほぼ確定する。


 ゼクスの表情が凍りついた。

 細い目がカッと見開かれ、狼狽の色が浮かぶ。


「き、貴様……どこでそれを……!」

「言ったでしょう。目がいいと」


 レンはニッコリと笑った。

 実際には心臓バクバクだ。もし外れていたら即処刑コースだった。

 だが、ゼクスの反応が答え合わせになった。


(……黒だ。こいつ、マジで国を売る書類にサインしてやがった)


 周囲の騎士たちもざわめき始める。

 「帝国と?」「まさか……」という不穏な空気が流れる。

 ゼクスは顔を赤くし、声を荒らげた。


「黙れッ! 下賎な詐欺師め! ……まあいい。貴様のその口、王宮の尋問室でじっくりと聞かせてもらおうか」


 ゼクスが合図を送ると、騎士たちが包囲網を狭めた。

 力尽くで連行する構えだ。

 セシリアが拳を握り、アリアが杖を構える。

 全面戦争か。

 レンの胃がキリキリと痛む。

 (やめて! 平和的に解決して!)


 その時。

 ゼクスの背後から、一人の伝令兵が駆け込んできた。


「ほ、報告! 城より緊急の勅命です!」

「なんだ、騒々しい! 今は忙しいのだ!」

「は、はい! しかし……国王陛下がお目覚めになられました!」


 その言葉に、その場にいた全員が息を飲んだ。

 病に伏せり、意識不明と言われていた国王が目覚めた。

 ゼクスの顔色が、赤から青、そして白へと変わっていく。


「ば、馬鹿な……。あの毒は……いや、病は、回復するはずが……」


 小声で「毒」と言いかけたのを、レンは聞き逃さなかった。


「そして、陛下より仰せつかって参りました! 『市井に賢者が現れたと聞いた。その者を直ちに王宮へ招け』と!」


 伝令兵の指差す先。

 そこにいたのは、ボロ布を纏い、顔を引きつらせたレンだった。


「……は?」


 レンの口から間の抜けた声が漏れた。

 国王? なんで? 噂広まるの早すぎない?


 ゼクスが歯噛みしながらレンを睨む。


「……チッ。運のいい男め。……連れて行け! 陛下への謁見だ! 粗相があればその場で首を刎ねてやる!」


 騎士たちがレンを取り囲む。

 今度は逮捕ではなく、護送のために。

 セシリアとガレスが、レンの両脇を固める。アリアも後ろに続く。


「レン様……! 天は我らに味方しました! これで陛下に直接、ゼクスの悪事を奏上できます!」

「いよいよですね、師匠! 王宮という魔窟で、我らの力を見せつける時!」

「お兄ちゃん、かっこいい!」


 三人のテンションが最高潮に達している。

 レンは遠い目で、王宮の方角を見つめた。

 巨大な城塞。権謀術数の渦巻く伏魔殿。

 あそこに行けば、もう二度と平穏な生活には戻れないだろう。


(……帰りたい。ボロ小屋でいいから、布団で寝たい)


 レンの心の叫びは誰にも届かない。

 彼は騎士たちに促され、用意された馬車へと押し込まれた。

 ガタゴトと車輪が回り始める。

 見送る群衆の歓声。

 睨みつけるゼクスの視線。

 そして、勘違いした仲間たちの期待に満ちた眼差し。


 こうして、第1章「最弱の最強(フェイク・マスター)」の幕は、レンの絶望的な溜息と共に下ろされた。

 次なる舞台は王宮。

 そこでは、さらなる強敵と、厄介な「魔法使い」たちが彼を待ち受けているのだった。


「……胃薬、ないかな」


 レンの呟きは、夜の闇に吸い込まれて消えた。


(第1章 完)

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