探しものは傘ですか?
片月いち
ある日の朝、出社前
サラリーマンの毎日は曇っている。
晴れやかな日差しが照らすこともなければ、先が見通せないほどの土砂降りに見舞われることもない。
ただ何となく漠然とした不安があって、どんよりとした曇り空である。
とはいえ、何年もサラリーマンをやっていればそれも慣れてくる。いつもの曇り空の下、いつものルーチンをこなしていく。
偶然にも、今の天気は本当に曇り空だった。
「あ。傘」
そう呟いたのは、いつものコンビニを出て数歩歩いた後だった。
お昼に食べるコンビニおにぎり。ちょっと高くなって自炊も考えなきゃなあなどと思っていた。
持ってきた透明ビニール傘を、店の前の傘立てに忘れてきた。
朝から降っていた雨はもう止んでいた。昼にかけて晴れていく予報なので、もう使うことはないだろう。
とはいえ放置するわけにもいかない。腕時計でバスの時間を確認しつつ、僕は後方の傘立てに近づいた。
「……どれだっけ?」
が、困ったことにどれが自分の傘か分からない。どれもこれも似たような透明ビニール傘だ。違いなんてわかるわけない。
社会人なんだからちゃんとした傘を使おうと布製傘を使用していた時期もあったが、視界が遮られる煩わしさから元のビニール傘に戻ってしまった。
しかし困った。どれでもいいと言えばいいけど、持ち主に勝手に持っていったと思われたくない。
とはいえ会社に向かうためのバスの時間もあるから、ここで立ち止まっているわけにも……。
(いや、まだ少し時間はあるし。ちょっとだけ推理してみるか)
ほんの気まぐれで、自分の傘を推理で当ててみることにした。まあ、どうせバスはいつも遅れてくる。それまでには見つけ出せるだろう。
そうして改めて傘立てを確認する。六本まで入る仕様で、それが店の入り口左右に一台ずつ置かれている。
右側の傘立てには傘が四本入っており、一つは布製傘だから除外。左側には二本のビニール傘が入っている。
計五本。この中の一本が僕の傘だ。
とはいえ簡単な話だ。
要するに僕以外の人がそれぞれ傘を持っていけば、残った傘が必然的に僕の傘だ。
何という完全無欠の攻略法。僕はちらりと店内にいる客の人数を確認した。
二人だけだった。
(なんでだよ……)
おかしい。ぜんぜん人数が足りない。僕の分を足しても三本、残り二本は持ち主不明ということになる。
おそらく雨が止んだせいでそのまま忘れてしまったのだろう。もしくは悪しき心の持ち主が忘れたふりをして捨てていったか。
まったく何ということを。思い出せなくなった人のためにもちゃんと回収して行けと言いたい。
これで“待ち”による解決は不可能になった。
僕は僕の推理力と記憶力を頼りに自力で解決しなければいけない。どっちも信用できないけど。
(……まあ待て。まだ慌てる時間じゃない。店内に入った時の状況を思い出すんだ)
僕は頼りにならない記憶の底から、来店時の状況を思い出そうと試みる。
当然何も思い出せず、だからこそ自分の傘がわからなくなっている(Q.E.D.)。
だが、そんな頼りない記憶力でも、朧げながら浮かんでくることもあるもんだ。
同じビニール傘とはいえ個体差はある。持ち手の感触だったり、開きやすさには程度差がある。
たしか僕の傘は金具が微妙に緩くて、きちんと開くには手動でロックをかける必要があった。
つまり一度開いてみれば、どれが自分の傘だったかわかるはずだ。
僕は軽く周囲を見回して誰も来ていないことを確認する。
右側の三本のうちの一つに手をかけた。
一発で当たりを引けばいいが、もし違った場合、店の前で何度も傘を開いたり閉じたりしている怪しい人になってしまう。
意を決して傘立てから引き抜く――
「あ」
が、ちょうど店内の残り客が出てきて、慌てて手を離した。
出てきたのは女性客だ。何も言わず、じっと僕が離した傘を見つめている。
僕はすぐに傘立てから離れ、お先にどうぞのポーズをした。彼女は怪訝な視線を向けながら、その傘の前まで進んでくる。
……どうしよう。めっちゃ気まずい。
別に盗む気はなかった。ただ確認したかっただけなんだ。悪気はなかったから許してほしい。
心の中でそんな言い訳を並べてみたが、なぜか女性は傘を取らずにその場に立ち尽くしていた。
……あれ?
もしかして自分もわからないのでは?
確信を持って横顔を盗み見たら、彼女は眉を八の字に曲げて首を傾げていた。
「……傘、わかんないですよね」
少々可哀想になってきたので助け舟を出す。
フリーズしていた彼女が、弾けるようにこちらを向いた。
「そ、そうですよね!」
「僕もどれが自分のだったか自信が無くて……」
「私も本当にこれだったかよく覚えてなくて」
つまり、彼女もまた同じ空の下の迷い人だったのだ。
僕たちは一人ではない。その事実は、曇天にもたらされた一時の慈雨の如く、僕の心に染み渡っていく。
「店に入ったときのこと覚えてます? どっちの傘立てに入れた、とか」
一方、慈雨だろうが持ち主の手だろうが等しく弾く雨傘には、具体的な手がかりが必要だ。
「多分……右、だったと思います。右利きなので」
「なるほど。利き腕」
その線は考えていなかった。偶然にも僕も右利きである。ならば彼女同様、右側の傘立てに入れた可能性が高いだろう。
一気に三分の一まで確率を上げられた。この調子でもっと思い出してもらいたい。
「店に入った順番とかどうでしょう? その時にはもう傘立ては満杯でした?」
「どう……だったでしょう? 急いで入ったのでよく覚えていません」
「あとは雨がどうだったかですね。僕が入った時はまだ降ってましたけど」
何だかんだで僕も思い出してきた。
たしか入店前はけっこう降ってた気がする。店の庇は小さいので、濡れないように慌てて店に入ったのだ。
「あ、そうだ。傘についた雨粒を見ればいいんじゃないでしょうか? 私の時は小雨になってたので雨粒が少ないはずです」
「その手がありましたか」
感心した。まだ頭が半分寝ている僕ではまったく思いつかなかった手だ。
称賛を込めて顔を向けると、彼女は一歩も動くことなく、僕にじっと視線を送っていた。
見ろ、と。言われた気がした。
僕は粛々と検分に向かう。悲しいかな、サラリーマンは本能的に上位者には逆らえない。
結果。
「よくわかんないですね……」
当たり前だ。
傘は狭い傘立ての中でひしめき合っている。雨粒なんかすぐ隣に移ってしまうだろう。
そうこうしている内に、店内にいたもう一人の客も出てきた。
店の前で立ち止まる僕らに怪訝な視線を向けつつ、彼は傘を一本引き抜いて去っていく。
左側の傘だった。
依然、状況は芳しくない。
「あの、僕の傘、ちょっとガタがきてるんで、開いたらわかるかもしれません」
「それはそうかもしれませんけど……。でもここまで来たら開かずに当てたくないですか?」
「それは、まあ……はい」
その気持ちはわかる。僕もできることなら推理で当てたい。
だが生憎バスの時間というものもある。僕らのような社会人は、常に迫りくる時間に踊らされているのだ。
「……あと、他人の傘に触りたくないです。自分の傘を触られるのも嫌なんで」
その気持ちはわからない。貴女にはその信念を貫くべく、是非とも傘に印でも付けていてほしかった。僕も助かる。
「あとは汚れとかシミみたいなのが付いていたとか」
「どうですかね……。たしか500円のシールが貼ってあったと思いますけど」
「コンビニで売ってる値段ですね。シールの剥がれはなかったですか?」
色々な可能性が考えられるが、結局自分の傘がどうだったか覚えていないので、今一つ判断材料にしづらい。
値札のシールを見てみたが、それがどこのコンビニの傘なのか、そもそも自分が買ったのはどこだったか思い出せない。
「というか私、そろそろバスが出るんで早く見つけたいです」
「やっぱり開いてみますか? 僕もバスの時間があります」
「うーん。悔しいけど、そうするしか……」
そうして二人が諦めかけたときだった。
なんとコンビニからもう一人出てきたのである。
さっき店内を確認したときはいなかった。もちろん新しく入った客でもない。おそらくトイレにでも入っていたのだろう。
黒のダウンを着た彼は、傘立ての前の僕らに一瞬ぎょっとするが、すぐに傘を引き抜いて去っていった。
右側の傘立てである。
「これで二分の一ですね。せーので取ってみますか?」
「もうちょっと考えたいですけど、仕方ないですよね……」
そう、仕方ない。サラリーマンが大好きな言葉だ。
僕らはよく頑張った。たかがビニール傘一本に朝からよく格闘した。もう自分を許してあげてもいい頃ではあるまいか。
あ――、と彼女が声を上げる。
「そういえば。さっきの黒のダウンの人、店に入る時見ました」
「右の傘立てから取っていった人ですか?」
「はい。一緒に入店したんです。彼が右に行ったから、私はそっちに行けなかったんですよ。だから……」
すたすたと、彼女は左側の傘立てに向かう。
そこにはもう一本しか残っていない。その一本を勢いよく引き抜いた。
「やっぱり。これが私の傘です」
「おめでとうございます」
「これで気持ちよく会社に向かえます。――それでは」
彼女は一礼をすると、躊躇う様子もなくさっさと歩いて行った。
晴れやかな顔である。何かをやり切った顔だ。特に手伝ってくれる気はなさそうだ。
結局、僕らはこの曇り空の下、一人孤独に生きるしかないのだ。
だが、こうしてまた一人になってしまったせいで、余計に当てたい気持ちが強まった。
二分の一だ。なんとか一発で自分の傘を引き当てたい。
彼女は店内に入るときの状況を思い出すことで、自分の傘を見つけ出した。やはりそこに手がかりがあるはずなのだ。
店に入る時……入る時……。
駄目だ。ぜんぜん思い出せない。雨がまだ降ってたということしか思い出せない。
僕はじっと傘立てを睨む。
透明で、見分けのつかないビニール傘は、まるでサラリーマンの在り方そのものだ。無個性で代替可能な、従順な労働者。
傘立てに満杯に詰められている様など、朝の満員電車のようではないか。
「……いや。待てよ?」
冷静に考え直す。店に入る前、僕は傘を閉じていて、傘立てはほぼ満員の状況だった。
僕はこのほぼ満杯の傘立てに後から傘を入れたのだ。慌てて閉じた傘。とくに水切りなんかもしていない傘を。
だとすれば――。
「……やっぱり。これが僕の傘だ」
そうして僕の手元に、自前のビニール傘が戻ってきた。
傘には水滴が付着している。だが当然ながら、内側にそうした形跡はない。
もし傘の内側に水滴が付いていたのなら、後から入れた傘のせいである。満員の傘立てに新たに入れられた新たな傘は、先に入れてあった傘の内側に水滴を落とすことがある。
それがないのは一番最後に入れた傘――僕の傘に違いない。
見るべきは外ではなく、内側だったのだ。
そうして僕は、手にしたビニール傘を開いてみる。ロックが緩くて、手動で入れないとずるずる落ちてくる。この仕様は間違いなく僕の傘である。
ふぅと息を吐く。どんなもんだ。僕だってやればできるのだ。
たとえ独りでも、記憶が当てにならなくとも、僕の進む先がずっと曇り空と決まったわけではない。将来の天気は誰にもわからないのだ。
……なんちゃって。
ふと顔を上げると、雲の切れ間から日が差し込み、足元の水たまりに虹が反射していた。
雨降って地固まる。
曇り空のあとには、きっと輝く光景が待っている。
僕は戻ってきたビニール傘をぎゅっと握り、バス停までの道を歩き出した。
今日の天気は雨のち晴れ――
心なしか、軽やかな足取りだった。
……ちなみにこのあと、バスの時間がヤバかったので、少し走った。
探しものは傘ですか? 片月いち @katatuki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます