第6話 リナ:分からないから、描くために描く

展示会が終わったあと、私はアトリエに戻った。照明は自動で点き、作業台の表面は前回と同じ状態を保っていた。椅子を引き、端末を立ち上げる。ファンの音が一定の回転数に落ち着くまで、少し時間がかかった。


例のキャンバスは、すでに高解像度でスキャンされていた。泥の部分だけを切り出し、拡大する。粒子の形は不揃いで、境界は曖昧だった。飛沫の方向を抽出すると、放射状に見えるが、中心点は定まらない。私はその曖昧さを数値に変換しようとした。


パラメータを増やすと、モデルは安定した。減らすと、再現性が落ちた。どちらが正しいかは、表示されなかった。私はログを見返し、同じ処理を何度か繰り返した。結果は毎回少しずつ違っていたが、誤差の範囲内と表示された。


泥の成分分析も行った。無機物、有機物、水分量。比率は平均的で、特異な値は出なかった。道路工事で見られるものと、大きな違いはない。私はその比較表を眺め、列と行の対応を確認した。


飛沫のランダム性を評価するために、別の生成モデルを立ち上げた。疑似的な汚れを、何百枚も生成する。画面上に並ぶそれらは、どれも似ていて、どれも違っていた。元の泥と完全に一致するものはなかった。


私は時間を測った。乾燥にかかった時間、展示会場の湿度、照明の熱。条件は記録されている。再現は可能なはずだった。可能性の一覧は、すでに揃っている。それでも、何かが抜け落ちている感覚があった。


画面の端に、未分類の項目が残っていた。自動タグ付けが失敗した部分だ。私はそこを拡大し、カーソルを合わせた。説明は出なかった。警告も表示されなかった。ただ、空白があった。


なぜその位置に、あの形で泥が付着したのか。なぜその瞬間だったのか。そうした問いは、入力項目として存在していなかった。私は新しい項目を作ろうとしたが、名称が決まらなかった。仮のラベルを付けると、処理が止まった。


湊のことを思い出したが、彼の行動を再現することは試みなかった。彼の立ち位置、腕の角度、力の強さ。そうしたものは推定できる。しかし、それを並べても、画面上の数値は変わらなかった。


作業を続けるうちに、外が暗くなった。照明が自動で切り替わり、画面の色温度が少し変わった。私はその変化を確認し、設定を戻した。泥の画像は、相変わらず同じ位置にあった。


最終的に、私は解析結果を保存した。完全ではないが、提出条件は満たしている。残差の欄に、数値ではないものが残ったままだったが、エラーにはならなかった。


端末を閉じる前に、もう一度だけ泥を見た。そこには、まだ乾ききらない部分があるように見えた。実際には、すでに完全に乾いているはずだった。それでも、その部分だけが、更新を拒んでいるように見えた。


「…もう一度、描いてみるか」


私は明日の予定を組んだ後に、ログを閉じた。理解できない項目は、そのまま残した。消す理由も、強調する理由も、見つからなかった。


画面が暗転し、ファンの音が止まった。アトリエには、何も動かない空気だけが残っていた。

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AI絵画は汚されて完璧になる zakuro @zakuro_1230

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