第5話 奏:俺のリアル

会場には昼過ぎに入った。人の流れが落ち着く時間帯を選んだつもりだったが、そうでもなかった。入口のガラスは指紋で曇り、外の光が歪んで見えた。受付の人は俺を見なかった。俺は名前を言わず、パンフレットも取らなかった。


聖母の前には、相変わらず人が集まっていた。距離は一定に保たれていて、誰も近づきすぎなかった。床には目印のテープが貼られ、その内側に人は入らない。俺はその外側に立ち、キャンバスの下半分を見ていた。泥はほぼ乾いていたが、中心だけが少し暗かった。


批評家の声が聞こえた。スピーカーは使われていないが、言葉はよく通った。


「この汚れこそ生命だ」 「完璧だったからこそ、効いている」 「現実と繋がった瞬間だね」


俺はその言葉を、音として受け取っていた。意味は追わなかった。声の高さと、語尾の切り方が気になった。


批評家の彼は同じ言い回しを、少しずつ変えながら繰り返していた。


別の誰かが頷き、メモを取っていた。紙に書かれる線は速く、ためらいがなかった。俺はその紙を見ていた。どんな文字が並んでいるのかは分からなかったが、余白が少ないことだけは分かった。


「嫉妬すら、表現になるんですね」


誰かがそう言った。私の背後からだった。振り向いても、誰もいない。


その言葉が、どこに向けられたものなのかは確認しなかった。


ただの空耳だ。


この勘違いは、空気の中に残る感触が消えなかった。


胃のあたりが、不規則に動いた。痛みではなかった。空腹とも違った。喉の奥が狭くなり、呼吸が浅くなった。俺はそれを吐き気として認識したが、理由は結びつけなかった。


聖母の白は、相変わらず均一だった。泥の部分だけが、過剰に注目されていた。人の視線は、そこに集まり、そこから離れなかった。


俺は、最初に泥を投げた位置を思い出そうとしたが、正確には思い出せなかった。


「人間だからこそ、できることだ」


また声がした。肯定の調子だった。俺は自分の靴先を見た。乾いた泥の粒が、まだ付着していた。いつからそこにあるのかは分からなかった。踏みしめると、わずかに音がした。


吐き気は強くなったが、吐くものはなかった。俺はそのまま立っていた。逃げ場は特になかった。出入口は近かったが、体は動かなかった。動く理由も、留まる理由も、同じくらい弱かった。


誰かが私の横を通り過ぎ、香水の匂いが残った。それが混ざり合い、会場の匂いが少し変わった。俺はその変化を感じながら、もう一度だけキャンバスを見た。


そこにあるものは、もう俺のものではないように見えた。そう判断したわけではない。ただ、そう見えただけだった。


俺は目を伏せ、ゆっくりと人の流れに紛れた。吐き気は、外に出るまで続いていた。

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