# 第10話:鐙(あぶみ)の革命、銀龍の決断

乾いた風が吹き抜ける雪原。

そこは今、鉄と血の匂いが充満する修羅場と化していた。


「ヒャッハー! 囲め囲め! 荷物を奪え!」


北東から襲いかかってきたのは、公孫瓚に雇われた黒山賊の残党、二千。

彼らは正規軍のような規律はないが、山岳戦で鍛えられた足腰と、略奪への執着心を持った厄介な集団だ。

通常、平地での騎兵戦は、馬の勢いを殺さずに突撃するのがセオリーである。だが、賊たちは散開して矢を放ち、騎兵の機動力を封じようとしていた。


対する呂布軍の右翼を守るのは、張遼文遠率いる一千の騎兵部隊。

彼らが乗る馬には、馬鈞が開発し、幽州の鉄で量産された新兵器――『双鐙(そうとう)』と『高橋鞍(こうきょうくら)』が装着されている。


「……来るぞ。調子に乗った賊徒どもが」


張遼は冷静だった。

彼の手には手綱がない。両足でしっかりと鐙を踏みしめ、鞍に体を預けることで、両手が完全に自由になっているからだ。

彼は愛用の長槍を両手で構え、静かに号令を発した。


「全軍、散開射撃! 敵の度肝を抜いてやれ!」

「応ッ!!」


呂布軍の騎兵たちが、一斉に馬首を巡らせた。

その動きは、賊たちの予想を遥かに超えていた。

通常の騎兵なら、旋回時には速度を落とし、片手で手綱を操作しなければならない。だが彼らは、全速力で駆けながら、まるで自分の足で曲がるかのように鋭角に方向転換したのだ。

そして、さらに驚くべきことが起きた。


ヒュンヒュンヒュンッ!

走りながら、しかも横を向いた状態で、騎兵たちが正確無比な矢を放ったのだ。

『パルティアン・ショット(背走射撃)』に近い高等技術だが、鐙のおかげで、並の兵士でも安定して弓を引くことができる。


「な、なんだアイツら!? 走りながら撃ってきやがる!」

「ぐああっ!?」


賊の前衛が次々と射倒される。

盾を持たない彼らにとって、機動力を維持したままの射撃は悪夢でしかない。


「ひるむな! 近づけばこっちのもんだ! 引きずり下ろせ!」


賊の首領が叫び、無理やり距離を詰めようとする。

だが、それこそが張遼の狙いだった。


「かかったな。……全軍、突撃ッ!!」


張遼が合図を送ると、騎兵たちは一瞬で弓を捨て(背負い)、槍や刀に持ち替えた。

そして、鐙に全体重を乗せて立ち上がり、馬の突進力に自重を加えた強烈な一撃を繰り出した。


ズドォォン!!

激突音。

それは騎兵戦というより、重戦車の轢殺に近かった。

鐙を踏ん張ることで得られる反作用は、槍の突きを数倍の威力に変える。賊の粗末な皮鎧など、豆腐のように貫通された。


「ぎゃあああ!?」

「ば、馬鹿な! なんで落ちねえんだ!?」


通常、これほどの衝撃を受ければ、反動で騎手も落馬するはずだ。だが、高橋鞍が腰を支え、鐙が足場となることで、呂布軍の騎兵は岩のように揺るがない。

一方的な蹂躙。

技術の革新が、戦場の常識を塗り替えた瞬間だった。


「……すごい。これが殿の言っていた『未来の戦』か」


張遼自身も、その威力に戦慄していた。

自分の武勇が必要ないほど、兵士たちが強い。いや、兵器が強い。

だが、彼は慢心しなかった。

「調子に乗るな! 陣形を崩さず、一匹残らず掃討せよ!」

彼の的確な指揮が、この殺戮劇をより完璧なものにしていた。


***


一方、南西の戦線。

ここでは、別の種類の激戦が繰り広げられていた。


公孫瓚軍の先鋒千騎を率いるのは、趙雲子龍。

対するは、呂布軍本隊を守る高順と華雄の歩兵部隊。


「……道を開けろ! 我が槍は、逆賊・呂布に向けられている!」


趙雲が白龍(愛馬)を駆り、単騎で突っ込んでくる。

その槍捌きは神速。華雄の部下たちが束になってかかっても、切っ先に触れることさえできずに吹き飛ばされる。

強い。

個人の武勇において、趙雲はすでに完成されている。


「へっ、威勢がいいな若造! 俺が相手だ!」


華雄が巨大な大太刀を振りかぶり、趙雲の前に立ちはだかる。

【金剛鬼】の異名を持つ華雄の一撃は、岩をも砕く威力だ。

だが、趙雲は正面から受けなかった。

柳のように身をかわし、すれ違いざまに槍の石突きで華雄の脇腹を強打する。


「ぐっ……! 速えなおい!」

「力任せな剣では、私には当たりませんよ」


趙雲の目は冷ややかだった。

だが、その奥には深い悲しみが見え隠れしていた。

彼は本気ではない。殺気を込めてはいるが、どこか迷いがある。


「……迷いがあるな、子龍」


戦場に、低く重い声が響いた。

戦っていた兵士たちが、自然と手を止めるほどの威圧感。

赤兎馬に乗った呂布奉先が、ゆっくりと姿を現した。


「呂布……!」


趙雲が馬首を巡らせる。

ついに、この時が来た。

自分が監視し、惹かれ、そして今、敵として対峙する男。


「公孫瓚に言われて来たか。……不本意だろう?」

「……主君の命は絶対です。それが武人の義」

「義だと?」


呂布は鼻で笑った。


「くだらん。義とは、自分の心が決めるものだ。誰かに押し付けられた命令に従うことが義か? それはただの『奴隷』だ」


呂布は画戟を地面に突き刺し、手ぶらになった。

完全な無防備。挑発ですらない、圧倒的な余裕。


「来い、子龍。お前の槍で、俺の『義』を貫いてみせろ。……もし俺を倒せれば、お前の勝ちだ。俺の軍も、民も、全て公孫瓚にくれてやる」

「……武器を持たない相手を討てと?」

「構わん。どうせお前の槍など、今の俺には届かん」


その言葉が、趙雲の武人としてのプライドに火をつけた。

舐められた。

いや、試されている。


「……後悔なされますな!」


趙雲が叫び、白龍を疾走させた。

人馬一体。銀色の閃光と化した趙雲の槍が、呂布の心臓めがけて突き出される。

速い。

華雄ですら目で追えない速度。

だが、呂布は動かなかった。槍が胸に触れる寸前まで、瞬き一つしなかった。


(……なぜ、避けない!?)


趙雲の心に、一瞬の躊躇いが生まれた。

この男は、本当に死ぬ気なのか? それとも、私を信じているのか?

その迷いが、槍の速度をわずかに鈍らせた。


パシッ。


乾いた音が響く。

呂布の左手が、趙雲の槍の穂先を掴んでいた。

素手で。

鋭利な刃が掌に食い込み、血が滴る。だが、呂布の顔色一つ変わらない。


「……やはりな。お前の槍は優しい」


呂布は、血の流れる手で槍を握りしめたまま、趙雲を引き寄せた。

至近距離。

互いの視線が交差する。


「お前は、俺を殺したくないと思っている。……なぜだ? 俺が逆賊だからか? それとも、俺の中に『お前が求めていたもの』を見たからか?」


趙雲は言葉を失った。

動けない。槍を引くことも、突き込むこともできない。

呂布の覇気が、趙雲の魂を縛り付けていた。


「子龍。お前が見た俺軍の姿を思い出せ。兵たちは笑っていただろう? 民は安心していたはずだ。……それが答えだ」


呂布は槍から手を離した。

鮮血が雪の上に落ちる。


「公孫瓚は強い。だが、奴の強さは『他者を踏みつけにする強さ』だ。奴の下にいれば、お前はいずれ、その槍で罪なき民を殺すことになるぞ」

「……ッ!」


趙雲の脳裏に、公孫瓚による異民族虐殺の光景がフラッシュバックする。

女子供まで容赦なく殺し、「正義」と嘯く主君の姿。

それに従う自分への嫌悪感。


「俺は違う。俺の強さは『守るための強さ』だ。……俺の下に来れば、お前のその綺麗な槍を、一度たりとも汚させはしない」


呂布が右手を差し出した。

血に濡れた手。だが、それはどんな宝石よりも輝いて見えた。


「選べ、趙子龍。……過去の鎖に繋がれたまま朽ちるか、俺と共に未来を切り開くか!」


戦場が静まり返った。

華雄も、高順も、敵兵たちさえも、固唾を飲んで二人を見守っている。

これは勧誘ではない。魂の決闘だ。


趙雲の手から、力が抜けた。

愛槍が地面に落ちる。

彼は馬から降り、雪の上に両膝をついた。


「……私の負けです」


趙雲の声は震えていた。

悔しさではない。長い迷路から抜け出した、安堵の震えだった。


「貴方の言う通り……私はずっと、探していました。私の槍を、迷いなく振るえる場所を。……それがここにあると知りながら、義理という鎖に縛られていた」


趙雲は顔を上げ、涙の滲む瞳で呂布を見上げた。


「呂布殿。……いいえ、我が主よ。この趙子龍、不忠の罪を背負い、貴方の元へ参じます。……どうか、この愚かな龍を導いてください!」


趙雲が頭を垂れる。

その瞬間、彼の背中から目に見えない鎖が砕け散る音がした。

そして代わりに、銀色のオーラが立ち昇る。

『覇王の共鳴』。

呂布への心からの帰順が、趙雲の中に眠っていた真の力――【龍胆(りゅうたん)】を覚醒させたのだ。


「……よく来た、子龍」


呂布は、血のついた手で趙雲の肩を抱き寄せた。


「背負う罪などない。お前はただ、正しい道を選んだだけだ。……さあ、立て。俺たちの戦いはこれからだぞ」


趙雲が立ち上がる。

その顔には、もはや一点の曇りもなかった。

最強の盾にして、最強の矛。

銀の騎士が、ついに魔王の隣に並んだのだ。


「全軍! 聞けぇぇッ!!」


呂布が天に向かって咆哮した。


「趙子龍は今日より、俺の兄弟であり、俺の剣だ! 奴に手出しする者は、この呂布が許さん! ……公孫瓚軍の者どもよ、命が惜しくば失せろ! さもなくば、この新しい『家族』の初陣の露と消えろ!」


呂布の覇気と、覚醒した趙雲の闘気。

二つの巨大なエネルギーが合わさり、戦場を圧巻する。

公孫瓚軍の兵士たちは、もはや戦う気力を失っていた。主将である趙雲が降り、目の前には鬼神が二人。

武器を捨て、逃げ出す者が続出する。


勝負あり。

北方の戦いは、呂布軍の完全勝利で幕を開けた。

だが、これはまだ序章に過ぎない。

本拠地で待つ公孫瓚、そしてその背後でうごめく袁紹。

本当の地獄は、ここから始まるのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る