第9話:静かなる氷壁、白馬の胎動

薊の城外に広がる荒野は、深い雪に閉ざされていた。

だが、その白銀の世界の下で、どす黒い謀略の根が静かに、しかし確実に広がり始めていた。


公孫瓚軍の本拠地・右北平(ゆうほくへい)。

その城内の一室で、公孫瓚は不機嫌そうに酒を煽っていた。

暖炉の火が爆ぜる音だけが響く静寂の中、彼の苛立ちは頂点に達していた。


「……目障りだ。どいつもこいつも」


彼がグラスを叩きつけるように置く。

脳裏に浮かぶのは、劉虞の柔和な笑顔と、呂布の不敵な嘲笑だ。

劉虞は、異民族に金をばら撒き、偽りの平和を演出している。そして呂布は、その劉虞に取り入り、我が物顔で幽州に居座っている。

許せない。

この幽州を力で守ってきたのは、自分と白馬義従ではないか。なぜ民は自分を畏れこそすれ、敬愛しないのか。なぜ劉虞のような軟弱者が「聖人」と崇められるのか。


「報告します!」


扉が開き、伝令兵が駆け込んできた。


「呂布軍の動きに変化あり! 彼らは連日、奇妙な訓練を行っています。また、商人を通じて大量の鉄と木材を買い漁っているようです」

「鉄と木材だと? 城でも築くつもりか?」

「いえ、それが……何やら奇妙な荷車のようなものを作っているとか。詳細は不明ですが、異民族の技術を取り入れているという噂も……」


公孫瓚は鼻を鳴らした。


「ふん、小細工か。所詮は蛮族の知恵。我が白馬義従の突撃の前には、紙屑同然だ」


彼は立ち上がり、壁に掛けられた地図を睨んだ。


「これ以上、奴らを太らせるわけにはいかん。……黒山賊の残党を動かせ。奴らに呂布軍の補給路を襲わせろ。そして我々は『治安維持』の名目で出兵し、混乱に乗じて呂布を討つ」


卑劣な策だ。だが、公孫瓚に躊躇いはない。

勝てば官軍。力こそ正義。それが彼の信条だからだ。


「それと……趙雲はどうした? 奴に呂布の監視を命じたはずだが、報告が遅いぞ」

「はっ、趙雲殿は……その、連日呂布軍の陣営近くまで行ってはおりますが、積極的な偵察というよりは、何かを観察しているようで……」


公孫瓚の目が冷ややかに細められた。


「……まさか、寝返ったわけではあるまいな?」

「め、滅相もございません! あの実直な趙雲殿に限って……」

「ならいい。奴を呼べ。先鋒を命じる。呂布の首を取ってこいとな」


公孫瓚の唇が歪む。

趙雲の実力は認めている。だが、その潔癖すぎる性格が気に入らない。

もし呂布に感化されているようなら、戦場で使い潰せばいい。


***


一方、呂布軍の陣営。

陳宮の天幕には、一人の男が訪れていた。

灰色の衣を纏い、影のように気配を消した男。賈詡である。


「……公孫瓚が動きましたね」


賈詡は、陳宮の机に一枚の密書を置いた。

それは、公孫瓚軍の内部に潜り込ませた間者(スパイ)からの報告書だった。


「黒山賊を使って我々の補給線を断ち、その隙に本隊で包囲殲滅する作戦のようです。……芸がないというか、相変わらず力任せな男ですね」


賈詡が淡々と言うと、陳宮は眼鏡(伊達)の位置を直しながら頷いた。


「まあ、彼らしいと言えば彼らしい。だが、侮れませんよ。白馬義従の突撃力は本物だ。平原でまともにぶつかれば、歩兵主体の我々は不利です」

「ええ。ですから……少しばかり『仕掛け』をしておきました」


賈詡の口元に、冷たい笑みが浮かぶ。

彼は懐からもう一枚の紙を取り出した。それは、鮮卑族の族長・丘力居からの返書だった。


「鮮卑族には、『公孫瓚が黒山賊と手を組み、鮮卑の村を襲う計画がある』という噂を流しておきました。もちろん、証拠となる偽の命令書も添えて」

「……相変わらず性格が悪いですね、貴公は」


陳宮は呆れたように言ったが、その目は笑っていた。


「これで鮮卑族は、公孫瓚を共通の敵と見なす。彼らの騎兵が動けば、公孫瓚の背後を脅かすことができます。……毒をもって毒を制す、ですか」

「生き残るためですよ。我々はまだ弱小勢力だ。使えるものは、嘘でも毒でも使わなければ」


二人の軍師・謀士の間で、静かな共犯関係が成立していた。

陳宮が「正攻法」で軍を動かし、賈詡が「搦め手」で敵を操る。

光と闇。この二つが揃った時、呂布軍の知略は隙のないものとなる。


***


その頃、趙雲は公孫瓚の前に呼び出されていた。


「……呂布を討て、ですか」

「そうだ。奴は帝都を焼いた逆賊だ。幽州の平和のために排除せねばならん」


公孫瓚の命令は絶対だった。

だが、趙雲の心は晴れなかった。

逆賊。確かに噂ではそうだ。だが、自分の目で見た呂布は違った。

民と共に汗を流し、部下を家族のように愛し、劉虞の理想を理解しようとする男。

果たして、討つべき「悪」はどちらなのか。


「……返事がないな、子龍。まさか、奴に情でも移ったか?」


公孫瓚の声が低くなる。

周囲の側近たちが、疑いの目で趙雲を見る。

ここで拒否すれば、自分だけでなく、部下の兵士たちまで処罰されるかもしれない。


「……いいえ。承知いたしました」


趙雲は頭を下げた。

今はまだ、従うしかない。

だが、心の中で何かが決定的に音を立てて崩れていくのを感じていた。


(私は、誰のために槍を振るうのだ……?)


その夜、趙雲は一人、愛馬・白龍のたてがみを撫でながら星を見上げた。

脳裏に浮かぶのは、呂布の言葉。

『答えは戦場にある。……どちらが真の守護者か、お前自身の目で確かめろ』


明日、戦いが始まる。

その戦場で、自分は何を見るのか。そして、どちらの側に立つことになるのか。

趙雲自身にも、まだ答えは分からなかった。


***


翌朝。

呂布軍の陣営に、けたたましい角笛が鳴り響いた。

敵襲だ。

だが、兵士たちに動揺はない。すでに陳宮から「来る」と知らされていたからだ。


「敵影確認! 北東より黒山賊およそ二千! 南西より公孫瓚軍先鋒、千騎!」


伝令の声に、呂布はゆっくりと立ち上がった。

彼は愛用の画戟を手に取り、天幕の外へ出る。

そこには、すでに整列を終えた華雄、張遼、高順らが待ち構えていた。


「大将! 待ちくたびれましたぜ!」

「いつでも行けます、殿!」


彼らの目には、恐怖ではなく、獲物を前にした猛獣のような昂ぶりがある。

連日の厳しい訓練と、呂布による『覚醒』を経て、彼らは戦いを欲していたのだ。

自分たちの強さを証明したくてたまらないのだ。


「……良い面構えだ」


呂布はニヤリと笑った。


「公孫瓚は、俺たちを挟み撃ちにするつもりらしい。黒山賊を囮にして、本命の騎兵で側面を突く。……教科書通りの策だ」


呂布は赤兎馬に跨り、全軍を見渡した。


「教えてやろう。教科書通りに行かないのが『戦争』だということを。……張遼! お前は騎兵を率いて黒山賊を蹴散らせ! 新兵器(鐙)の威力、試してこい!」

「御意ッ!!」


「華雄! 高順! お前たちは歩兵を率いて、公孫瓚軍を受け止めろ! 一歩も引くなよ!」

「任せてくだせぇ!」

「承知!」


「そして……俺は」


呂布の視線が、戦場の彼方に向けられた。

そこには、白銀の鎧を纏った一騎の武者が、複雑な表情でこちらを見つめているのが見えた。

趙雲だ。


「俺は、迷える龍を迎えに行く」


呂布が赤兎馬の腹を蹴る。

真紅の巨体が、矢のように飛び出した。


開戦の狼煙が上がる。

北の大地を揺るがす、最初の激突。

それは単なる勢力争いではない。

「過去の覇道(公孫瓚)」と「未来の王道(呂布)」がぶつかり合い、一人の若き英雄(趙雲)の運命を決める、審判の戦いだった。

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