第7話:銀龍の迷い、鬼神の誘い
幽州の冬は長い。
呂布軍が薊(けい)の城外に陣を構えてから、半月が過ぎようとしていた。
その日の朝も、鋭い気合と打撃音が、冷え切った大気を震わせていた。
呂布軍の練兵場である。
だが、そこで行われているのは通常の訓練ではなかった。
総大将である呂布自身が、上半身裸で丸太のような木剣を振り回し、数十人の兵士を相手に立ち回っているのだ。
「遅い! それで俺の背中を守れるか!」
呂布の一喝と共に、木剣が唸りを上げる。
ドガッ! バキッ!
兵士たちが木の葉のように吹き飛ばされ、雪原に転がる。だが、彼らはすぐに起き上がり、泥だらけの顔で笑いながら再び呂布に向かっていく。
「まだまだァ! 大将の首取るまでは終われませんぜ!」
「へっ、口だけは一人前だな。来い!」
それは、殺伐とした訓練というよりは、荒っぽい祭りのような光景だった。
呂布の体からは湯気が立ち昇り、その背中には無数の 古傷(くんしょう) が刻まれている。
その圧倒的な「武」の結晶を目の当たりにすることで、兵士たちの士気は限界まで高められていた。
その様子を、陣地の外れにある松の木の上から、一人の男が見つめていた。
公孫瓚軍の斥候任務を帯びた、趙雲子龍である。
彼はこの半月、毎日欠かさずここに来ていた。公孫瓚への報告義務もあるが、それ以上に、彼自身の目が呂布から離せなくなっていたのだ。
(……強い。あまりにも)
趙雲は、武人としての本能で戦慄していた。
呂布の動きには、一切の無駄がない。力任せに見えて、その重心移動は流水のごとく滑らかだ。
そして何より、彼が放つ「気」だ。
部下たちに向ける厳しくも温かい眼差し。それが、兵士たちの潜在能力を引き出しているのが、離れた場所からでも肌で感じ取れる。
『覇王の共鳴』。
趙雲はまだその言葉を知らないが、現象としての奇跡を目の当たりにしていた。
「……羨ましいな」
趙雲の口から、無意識に本音が漏れた。
公孫瓚の軍は強い。白馬義従は精鋭だ。だが、そこにあるのは「恐怖」と「競争」による統率だ。失敗すれば罰せられ、弱ければ捨てられる。
呂布軍のような、主君と兵が魂で繋がり合うような熱量は、そこにはない。
「……羨ましいなら、混ざればいい」
不意に、真下から声がした。
趙雲が弾かれたように下を見ると、いつの間にか呂布が木の下に立っていた。
汗を拭いながら、楽しげに趙雲を見上げている。
「気配を……消していたのか」
「お前が見ているのは知っていたからな。……降りてこい、子龍。見物料代わりに、一汗かいていけ」
趙雲は迷った。
敵情視察中の身だ。相手の懐に飛び込むのは危険すぎる。
だが、武人としての血が騒ぐのを止められなかった。この男と手合わせをしてみたい。その底知れぬ強さの深淵を覗いてみたい。
趙雲は音もなく木から飛び降りた。
「……手加減は、無用に願います」
「ハッ、俺に手加減を頼むとはいい度胸だ」
呂布はニヤリと笑い、持っていた木剣を趙雲に放り投げた。
趙雲はそれを受け取り、構える。
重心を低くし、切っ先を呂布の喉元へ向ける。完璧な正眼の構え。
対する呂布は、素手だ。
だらりと両手を下げ、隙だらけに見える自然体。だが、趙雲には見えていた。その全身が、触れれば爆発する火薬庫のように張り詰めているのが。
(……来る!)
趙雲が踏み込んだ。
神速の突き。木剣が風を切り裂き、呂布の鼻先へと迫る。
だが、呂布は動かなかった。
当たる直前、首をわずかに傾けただけだ。
ヒュンッ。
木剣が空を切る。
趙雲は即座に手首を返し、横薙ぎに払う。
呂布は半歩下がり、その切っ先を指先で弾いた。
パァンッ!
乾いた音が響き、趙雲の手が痺れる。たった指一本で、全体重を乗せた一撃が逸らされたのだ。
「悪くない。だが、綺麗すぎる」
呂布の声が、耳元で聞こえた。
いつの間にか懐に入り込まれている。
ドォンッ!
呂布の掌底が、趙雲の腹にめり込んだ。
手加減された一撃だったが、趙雲の体は数メートル吹き飛ばされ、雪の上に転がった。
「ぐっ……!」
「お前の槍は美しい。教科書通りだ。だが、それじゃあ本当の修羅場では生き残れん」
呂布は仁王立ちで趙雲を見下ろした。
その瞳は、教師のように厳しく、そして慈愛に満ちていた。
「誰かを守るための武とは、泥臭いものだ。形などどうでもいい。歯を使っても、爪を使っても、最後まで立っていた奴が勝ちだ。……俺はそうやって生きてきた」
趙雲は、痛む腹をさすりながら立ち上がった。
悔しい。だが、それ以上に清々しかった。
公孫瓚の下では感じたことのない、魂が洗われるような感覚。
この人は、自分の技術ではなく、その奥にある「生き方」を見ている。
「……もう一本。お願いします」
「いいだろう。日が暮れるまで付き合ってやる」
その日、趙雲は日が落ちるまで呂布に挑み続け、そして百回負けた。
体中が痣だらけになり、息も絶え絶えになりながら陣地を後にする時、彼の心には一つの確信が芽生えていた。
(私が探していた『強さ』は、ここにある)
***
その夜。
呂布の天幕では、ささやかな宴が開かれていた。
とは言っても、酒と干し肉だけの簡素なものだ。
呂布の周りには、陳宮、華雄、張遼、そして馬鈞が集まっていた。
「……で、殿。あの若武者、何者ですか? 殿があそこまで目をかけるとは」
張遼が酒を注ぎながら尋ねた。
彼もまた、遠くから二人の手合わせを見ていた一人だ。趙雲の槍筋の良さに、同じ武人として嫉妬すら覚えていた。
「常山の趙子龍。……いずれ、お前と双璧をなす男になるぞ、文遠」
「私と……双璧?」
張遼が目を丸くする。
呂布は杯を干し、ニヤリと笑った。
「奴はまだ殻を破っていない。公孫瓚という狭い鳥籠の中で、自分がどう飛べばいいか分からずにもがいている。……だが、その殻が割れれば、天をも翔ける龍になる」
「買い被りすぎでは?」と陳宮が口を挟む。
「公孫瓚の配下を引き抜くのは、外交上問題があります。劉虞殿の手前、あまり派手な動きは……」
「分かっている。無理強いはせんさ」
呂布は遠い目をした。
前世の記憶にある、長坂坡(ちょうはんは)の戦い。
赤子を抱いて百万の敵中を突破した、あの鬼神の如き趙雲の姿。
劉備に忠義を尽くし、最後までその「仁」を守り抜いた銀の騎士。
(劉備よ。悪いが、今回は俺が貰うぞ)
呂布は心の中で詫びた。
趙雲の才能を一番活かせるのは、劉備の「徳」かもしれない。だが、趙雲を一番死なせない使い方ができるのは、俺の「武」だ。
俺はあいつに、悲劇的な撤退戦などさせない。常に勝利の先頭を走らせてやる。
「馬鈞。例の『アレ』はできているか?」
「は、はいっ! 設計図は完璧です! あとは材料さえあれば……」
馬鈞が慌てて図面を広げる。
そこに描かれていたのは、騎兵の常識を覆す革命的な馬具――『双鐙(そうとう)』と『高橋鞍(こうきょうくら)』の設計図だった。
これがあれば、騎兵は馬上で踏ん張りが利き、両手を自由に使って戦えるようになる。
北方の騎馬民族ですら持っていない、未来の技術だ。
「よし。幽州の鉄と木材を使え。劉虞殿には俺から話を通しておく。……春までに全軍に配備だ。これがあれば、俺たちの騎兵は無敵になる」
「は、はいっ! やります、僕、やります!」
馬鈞が目を輝かせて頷く。
彼の才能もまた、呂布の期待を受けて爆発的な進化を遂げていた。
洛陽から連れてきた職人たちを指揮し、今や立派な「工兵隊長」としての顔つきになっている。
「華雄。お前は新兵の練度を上げろ。高順が合流するまで、歩兵の要はお前だ」
「へいへい。任せといてくだせえ。俺の『可愛がり』で、泣く子も黙る精鋭にしてみせまさァ」
華雄が豪快に笑う。
彼もまた、呂布と出会って変わった。かつての粗暴さは影を潜め、今では部下思いの頼れる兄貴分だ。
「陳宮。公孫瓚の動きは?」
「苛立っていますね。劉虞殿が我々を厚遇しているのが気に入らないようです。……近いうちに、何らかの挑発、あるいは暴発があるでしょう」
陳宮が眼鏡(伊達)を光らせる。
その予測は冷徹で、的確だ。
「上等だ。向こうから仕掛けてくるなら、叩き潰す大義名分ができる」
呂布は立ち上がり、天幕の入り口を開けた。
外は満天の星空。北斗七星が冷ややかに輝いている。
「時は近いぞ。……北の狼(公孫瓚)を駆除し、銀の龍(趙雲)を手に入れる。そして、最強の騎馬軍団を作り上げ、南へ打って出る」
呂布の宣言に、その場にいた全員が震えた。
それは恐怖ではない。歴史が動く瞬間に立ち会っているという、武者震いだった。
彼らは知っている。この主君が見ている未来が、決して絵空事ではないことを。
「ついて来い。俺たちが、この乱世の天命を喰らうのだ」
夜風が吹き抜ける。
だが、天幕の中は燃えるような熱気に満ちていた。
呂布軍団。
その切っ先は研ぎ澄まされ、今まさに鞘から放たれようとしていた。
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