第6話:北の聖人、白き狼

黒山賊との戦闘から数日後。

呂布軍はついに、中華の最北端・幽州の境界線に到達した。

そこには、荒涼とした大地を分断するように、古びた関所が立ちはだかっていた。


「……ここが、幽州か」


呂布は馬上で呟いた。

視界に広がるのは、鉛色の空と、見渡す限りの雪原。中原の豊かな緑とは無縁の、厳しく貧しい土地だ。

だが、呂布の目は輝いていた。

前世の記憶が告げている。この痩せた土地にこそ、最強の騎馬を生み出す「草」と、屈強な兵士を育てる「風」があることを。


「殿。関所の方、動きがあります」


張遼が注意を促す。

関所の櫓に旗が掲げられ、重々しい音と共に城門が開かれた。

そこから現れたのは、歓迎の使者ではなかった。


ドドドドドッ――!

地響きと共に、純白の波が押し寄せてきた。

全員が白銀の鎧を纏い、白馬に跨った一団。その数、およそ五百。

彼らの装備は統一され、騎乗姿勢も完璧に揃っている。その整然とした動きは、ただの騎兵部隊ではないことを雄弁に物語っていた。


幽州最強の騎馬軍団――【白馬義従(はくばぎじゅう)】。


その先頭を行く男が、馬を止めた。

端正だが冷徹な顔立ち。貴族的な気品と、野獣のような獰猛さが同居する男。

公孫瓚(こうそんさん)伯珪。


「……呂布、と言ったか。董卓の番犬が、何の用だ」


公孫瓚は、呂布を見下すように鼻を鳴らした。

その声には、隠そうともしない侮蔑が滲んでいる。彼は名門の出であり、異民族を「害獣」として虐殺することで武名を上げた男だ。

成り上がりで、しかも「主殺し」の汚名を持つ呂布など、彼にとっては路傍の石ころ以下の存在なのだろう。


呂布軍の兵士たちが色めき立つ。

華雄が愛刀に手をかけ、張遼が槍を握りしめた。主君を侮辱されて黙っていられるほど、彼らの血は冷たくない。

だが、呂布は片手で彼らを制した。


「公孫瓚。久しぶりだな」


呂布は、まるで旧友に話しかけるように穏やかに言った。

その態度に、公孫瓚の眉がピクリと動く。


「貴様、私を知っているのか?」

「知っているとも。異民族殺しの英雄、白馬将軍。……貴様のその白馬、手入れが行き届いているな。良い足だ」


呂布の目は、公孫瓚ではなく、彼の乗る馬に向けられていた。

それは純粋な武人としての称賛だったが、公孫瓚にとっては挑発に聞こえたようだ。


「……私の馬を褒めても、何も出んぞ。用件を言え。貴様のような穢れた裏切り者が、この神聖な北土に何をしに来た」

「用があるのは貴様ではない。劉虞(りゅうぐ)殿だ」


呂布は真っ直ぐに公孫瓚を見据えた。


「俺は、あの方に会いに来た。道を空けてもらおうか」


「劉虞様に? ハッ、笑わせるな」


公孫瓚が大声で嘲笑した。

その笑い声が、冷たい風に乗って周囲に響き渡る。


「あの夢見がちな老人に会ってどうする? 董卓の金で亡命生活の許しでも乞うつもりか? それとも、その筋肉で畑仕事でも手伝う気か? ……貴様のような野蛮人が、劉虞様の高潔な理想を理解できるはずもない」


公孫瓚の言葉には、劉虞への複雑な感情が入り混じっていた。

軽蔑。苛立ち。そして、微かな嫉妬。

彼は劉虞の「異民族融和政策」を軟弱だと否定しながらも、劉虞が持つ圧倒的な人望にコンプレックスを抱いている。

武力では勝っているのに、民心では勝てない。その歪みが、彼の攻撃性を加速させていた。


「野蛮人か。……否定はせんよ」


呂布は自嘲気味に笑った。

前世の俺なら、ここでブチ切れて公孫瓚を斬り殺していただろう。

だが今の俺には、公孫瓚の「小物感」が手に取るように分かる。

こいつは強い。だが、その強さは「他者を見下す」ことでしか成立しない脆い強さだ。


「だが公孫瓚。俺が野蛮人なら、貴様は何だ?」


呂布の声色が、ふっと低くなった。

温度が下がる。物理的な気温ではなく、場の空気が凍りつくような圧迫感。


「貴様は力を誇示し、弱きを殺すことで己を保っている。だがその実、劉虞殿の人気がなければ、この幽州を統治することすらままならない己の無力さに、腹の底で怯えているのではないか?」


「――ッ!?」


公孫瓚の顔から、血の気が引いた。

図星だった。

彼の軍事力は、劉虞という「御輿」があって初めて正当化されている。劉虞がいなければ、彼はただの暴君として民や異民族に反乱を起こされ、孤立する運命にある。

それを、会って数分の男に見透かされたのだ。


「き、貴様……!」


公孫瓚の手が槍に伸びる。

殺気。

白馬義従たちが一斉に槍を構え、呂布軍を取り囲むような動きを見せる。

華雄が咆哮し、張遼が馬を寄せる。一触即発。


だが、呂布は動かなかった。

ただ静かに、公孫瓚を見つめ返しただけだ。

その背後に、幻影が揺らめいた。

天を突く巨大な鬼神の影。

『覇王の共鳴』による威圧。それは味方には力を与えるが、敵対者には根源的な「死の予感」として作用する。


(ひ、ひぃっ!?)


白馬義従の馬たちが、怯えていななき、後ずさりした。

公孫瓚ですら、冷や汗を流して槍を握る手が震えている。

目の前の男は、人間ではない。

触れてはいけない「天災」だ。本能がそう警鐘を鳴らしていた。


「……道を空けろ、公孫瓚」


呂布は静かに言った。


「ここで俺とやり合うか? 悪いが、俺の軍は腹が減っていてな。貴様らのその自慢の白馬を、今夜の鍋の具にするのも悪くないと思っている」


冗談ではない。本気だ。

この男なら、五百の精鋭騎兵を単騎で殲滅しかねない。

公孫瓚は歯を食いしばり、屈辱に顔を歪ませた。


「……通せ」

「は、はいっ!」


部下が慌てて道を開ける。

公孫瓚は呂布から視線を逸らし、吐き捨てるように言った。


「好きにするがいい。だが忘れるな、呂布。劉虞様はお前のような獣を飼い慣らせるほど甘くはないぞ」

「忠告、痛み入る」


呂布は短く礼を言い、堂々と関所を通過した。

その後ろを、華雄や陳宮たちが続く。

すれ違いざま、陳宮が公孫瓚に冷ややかな視線を送った。

(あれが白馬長史か。……武勇はあれど、器が小さい。我が殿の敵ではないな)


***


関所を越え、さらに北へ進むこと数日。

呂布軍は、幽州の治府である薊(けい)の城外に到着した。

劉虞は、呂布軍の入城を拒まなかった。それどころか、城外の荒地を駐屯地として提供し、食料や薪の支援まで申し出てきたのだ。


「……信じられん」


設営された天幕の中で、張遼が煮え切らない顔で呟いた。

彼は北方の出身だが、劉虞のような「お人好し」の統治者を見たことがなかった。


「我々は数千の兵を抱える武装集団ですよ? しかも、洛陽を焼いて逃げてきたという噂もある。普通なら警戒して、城門を閉ざすはずだ」

「それが劉虞殿の『仁』なのだろうよ」


呂布は、焚き火で暖を取りながら答えた。


「あの方は、俺たちを『危険な軍隊』ではなく、『行き場を失った難民』として見ているのだ。……甘いと言えば甘い。だが、その甘さに救われる民がいるのも事実だ」


呂布は立ち上がった。


「挨拶に行くぞ。手土産を持ってな」


呂布が手に取ったのは、洛陽から持ってきた最高級の茶葉と、馬鈞が道中で作った「水汲み水車の模型」だった。

金銀ではない。この痩せた土地で暮らす人々にとって、本当に価値のあるもの。

それを、呂布は本能的に選んでいた。


***


薊の城内は、穏やかな空気に包まれていた。

洛陽の豪華絢爛さとは無縁の、質素だが清潔な町並み。

行き交う人々の中には、漢民族だけでなく、異民族(烏桓や鮮卑)の姿もちらほらと見える。彼らは争うことなく、同じ市場で物を売り買いしていた。


「……すげえな」


護衛としてついてきた華雄が、目を丸くして呟く。

彼にとって異民族は「殺すか殺されるか」の対象でしかなかった。それが、ここでは隣人として共存している。


城の広間にて。

呂布たちは、劉虞との謁見を許された。

劉虞は、上座に座ることなく、呂布たちと同じ高さの席に座っていた。

質素な衣服。白髪交じりの髪。どこにでもいそうな好々爺に見える。

だが、その瞳には、どんな猛将よりも澄んだ、揺るぎない信念の光が宿っていた。


呂布は、無言で前に進み出た。

そして、華雄や張遼が驚く中、床に膝をつき、深く頭を下げた。


「飛将軍・呂布奉先。劉虞殿にお目通り叶い、光栄の至りにございます」


周囲の役人たちがどよめく。

あの傲岸不遜と噂される呂布が、最敬礼を取っているのだ。


「……面を上げてください、呂布殿」


劉虞の穏やかな声が響く。

呂布は顔を上げ、劉虞の目を真っ直ぐに見つめた。


「俺は、迷っています」


呂布は正直に告白した。

着飾った言葉など、この人の前では無意味だと感じたからだ。


「俺には力があります。誰にも負けない武があります。ですが……俺はこれまでの人生で、その力を破壊と殺戮にしか使えなかった。守りたかったものすら、守れずに失った」


脳裏に浮かぶのは、前世での最期。

燃える下邳城。泣き叫ぶ妻と娘。そして、自分の無力さに絶望して死んでいった陳宮や高順の顔。


「劉虞殿。あなたがこの幽州で成し遂げた『仁』の正体を、俺に教えてください。俺の武力を、どう使えば民を笑顔にできるのか……どうか、この愚かな獣にご教授願いたい!」


呂布の声は震えていた。

それは、天下無双の武人としてのプライドをかなぐり捨てた、一人の人間としての悲痛な叫びだった。


劉虞は、しばらく呂布をじっと見つめていた。

その瞳の奥にある、深い後悔と、微かな希望の光を見定めるように。

やがて、彼はふわりと微笑んだ。


「獣ではありませんよ、あなたは」


劉虞が立ち上がり、呂布の前まで歩み寄る。

そして、そのゴツゴツとした手で、呂布の手を包み込んだ。


「自分の弱さを認め、他者に頭を下げられる者は、誰よりも強い。……ようこそ、幽州へ。あなたのその力を、破壊ではなく『守護』のために使う道。共に探しましょう」


呂布の目頭が熱くなった。

許された気がした。前世の罪も、今世の迷いも、この老人の温かい手に包まれて、溶けていくような感覚。

師を得たのだ。

修羅の道を行く呂布にとって、最初で最後の、魂の師となる男を。


「……感謝します。この命、貴方の理想を守る盾となりましょう」


その光景を、遠くから見つめる者がいた。

広間の柱の影、公孫瓚の部下として警備に当たっていた一人の若武者である。

白銀の鎧。背中に背負った長槍。

彼は、呂布という男の予想外の行動に、息を呑んでいた。


(……この男は、一体何者だ?)


公孫瓚が「野獣」と呼んだ男。噂では「裏切り者」と蔑まれる男。

だが、今ここに見えるのは、誰よりも純粋に「道」を求める求道者の姿だった。


若武者は、胸の奥で燻っていた何かが、静かに熱を帯びるのを感じた。

それは、まだ名前のない予感。

自分の運命が、大きく変わろうとしている予兆だった。

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