第4話:武人の矜持、または張文遠の憂鬱

承知しました。

これを正式な**「第4話」**とし、行頭の空白(全角スペース)を削除した形式で再出力します。



北風が、荒野の土埃を巻き上げていた。


並州(へいしゅう)の雁門(がんもん)郡。ここは中華の北端に位置し、常に異民族の脅威に晒されている土地である。

その荒涼とした大地を、一隊の騎兵が進んでいた。数は五百ほど。装備は整っているが、どの兵の顔にも疲労と焦燥の色が濃く滲んでいる。


先頭を行く若武者が、手綱を引き絞り、空を見上げた。

張遼(ちょうりょう)文遠。

鋭い眼光に、引き締まった口元。まだ二十代前半という若さだが、その身に纏う武気は歴戦の古強者にも引けを取らない。

だが今、彼の心は千々に乱れていた。


「……これから、どうするつもりだ、文遠」


横に並んだ副官が、不安げに問いかけてきた。

張遼はため息交じりに首を振る。


「分からん。……だが、丁原(ていげん)様が亡き今、我々が帰る場所はない」


張遼はかつて、並州刺史・丁原の部下だった。

丁原は剛直な武人であり、張遼も彼を父のように慕っていた。

だが、その丁原は殺された。あろうことか、同じく養子として可愛がられていた呂布奉先の手によって。


あの日、洛陽で起きた悲劇。

董卓に唆された呂布が、丁原の首を斬り、その首を手土産に董卓軍へと寝返ったのだ。

張遼はその時、別の任務で洛陽を離れていたため、難を逃れた。だが戻ってきた彼を待っていたのは、主君の死と、裏切り者・呂布の栄達という残酷な現実だった。


「呂布……ッ!」


張遼の拳が震えた。

かつては兄のように慕っていた男。武芸の手ほどきを受け、背中を追いかけた最強の武人。

それが、欲に目が眩んで親殺しの大罪を犯した。

許せるはずがない。張遼は残された五百の手勢を率い、董卓軍には加わらず、かといって連合軍にも属さず、故郷である並州を目指して放浪していたのだ。


「将軍! 前方に土煙!」


斥候の叫び声に、張遼は思考を断ち切った。

反射的に長槍を構え、視線を凝らす。

地平線の彼方から、数千の軍勢がこちらに向かってきている。

旗印は――


「……『呂』? まさか」


張遼の目が驚愕に見開かれた。

真紅の地に黒く染め抜かれた『呂』の文字。そして、その軍勢の先頭には、見間違えるはずもない、赤兎馬に跨る巨躯の男。


「呂布だ! 呂布奉先だ!」


兵士たちが動揺する。

なぜ奴がここにいる? 董卓の下で栄華を極めているはずではないのか? しかも、その進行方向は洛陽ではなく、北――つまり、我々と同じ方向だ。


「……全軍、迎撃態勢!」


張遼は叫んだ。

逃げることはできない。相手は赤兎馬だ。追いつかれる。ならば、ここで刺し違えてでも主君の仇を討つ。それが武人の意地だ。

五百の騎兵が槍を構え、死を覚悟した陣形を組む。


だが。

接近してきた呂布軍は、予想外の行動に出た。

射程距離ギリギリのところで停止し、先頭の呂布だけが、武器を持たずにゆっくりと歩み寄ってきたのだ。


「……文遠か。久しぶりだな」


風に乗って届いた声は、かつて張遼が知る呂布の声とは違っていた。

傲慢さや粗暴さが消え、どこか枯れたような、しかし深い底知れなさを秘めた響き。


「呂布ッ! 貴様、どの面下げて俺の前に現れた!」


張遼は叫び、槍を突きつけた。

殺気。純粋な憎悪。

だが、呂布は眉一つ動かさず、ただ静かに張遼を見つめ返した。その瞳には、侮蔑も敵意もなく、あるのは深い哀しみと、慈愛のような光だった。


「……怒るのも無理はない。俺は丁原様を殺した。その罪は、万死に値する」


呂布は馬を降りた。

そして、あろうことか、張遼の前で膝をつき、地面に額を擦り付けたのだ。


「なッ……!?」


張遼だけでなく、両軍の兵士全員が凍りついた。

天下無双の飛将軍が。プライドの塊のような男が。

かつての弟分に土下座をしている。


「殺したければ殺せ。俺の首で気が晴れるなら、くれてやる」


呂布は顔を上げずに言った。


「だが、文遠。一つだけ頼みがある。……俺の首を取った後、この軍勢を率いて北へ行ってくれ」


「……は?」


「俺は洛陽から、未来を担う技術者や民を連れ出した。だが、今の俺には彼らを守り抜く自信がない。……お前ならできる。お前のその真っ直ぐな義侠心なら、彼らを見捨てず、安住の地へ導けるはずだ」


張遼は言葉を失った。

意味が分からない。この男は、自分の命よりも、連れている民や部下の命を優先しているのか?

かつての呂布なら、絶対にありえないことだ。奴は自分が生き残るためなら、部下を盾にし、親を売る男だったはずだ。


「……何の真似だ。命乞いか?」

「違う。取引だ。俺の命と引き換えに、五万の民の未来を買ってくれと言っている」


呂布が顔を上げた。

その顔を見て、張遼の心臓がドクンと跳ねた。

泣いていた。

あの鬼神・呂布が、涙を流していたのだ。

それは恐怖の涙ではない。己の罪を悔い、それでもなお何かを守ろうとする、血を吐くような決意の涙だった。


(……何があった? 俺の知らない間に、この人に何があったんだ?)


張遼の握っていた槍の切っ先が、わずかに下がった。

殺せない。

こんな目をしている男を、ただの復讐心で殺すことは、武人の魂が拒否していた。


「……立て。話を聞く」


張遼は絞り出すように言った。

呂布はゆっくりと立ち上がり、土にまみれた顔を拭うこともせず、張遼に微笑みかけた。


「感謝する、文遠」


その笑顔は、かつて並州で共に馬を駆り、酒を酌み交わしていた頃の、兄貴分としての呂布の顔だった。

張遼の中で、固く凍りついていた憎しみの氷が、ピキリと音を立ててひび割れた。


***


その夜、呂布軍と張遼軍は合同で野営を張ることになった。

焚き火の周りには、質素だが温かい食事が振る舞われていた。


大鍋で煮込まれているのは、麦粥と、干し肉を戻したスープ。

華雄が大きな柄杓で豪快に配膳し、陳宮が兵士たちの体調を見て回っている。

張遼の部下たちも、最初は警戒していたが、呂布軍の兵士たちから「食え食え、洛陽の金蔵から奪った上等な肉だぞ」と勧められ、空腹には勝てずに椀を受け取っていた。


張遼は、少し離れた場所でその光景を眺めていた。

不思議な軍だ。

寄せ集めのはずなのに、妙な一体感がある。上官と兵卒の距離が近く、互いに信頼し合っているのが空気で分かる。

丁原様の軍も精強だったが、ここまでの「温かさ」はなかった。


「……食わんのか」


隣に、呂布が座った。手には二つの椀を持っている。

一つを差し出され、張遼は黙って受け取った。

一口すする。温かい。冷え切った体に、出汁の味が染み渡る。


「……美味いな」

「だろう。華雄の奴、意外と料理が上手くてな」


呂布も粥をすすり、星空を見上げた。


「文遠。俺は変わった」

「……見れば分かる」

「俺は一度、死んだのだ」


呂布が唐突に言った言葉に、張遼は椀を取り落としそうになった。


「……は?」

「信じられんだろうがな。俺は未来を見てきた。俺が裏切り、暴れ回り、最後には誰からも見捨てられて処刑される未来を」


呂布は淡々と語り始めた。

董卓を殺し、長安を追われ、曹操と戦い、劉備を裏切り、最後は下邳の雪の中で死んだこと。

陳宮の忠義、高順の死、そして張遼が曹操に降伏し、名将として大成することまで。


荒唐無稽な話だ。狂人の妄想と笑い飛ばすべきだ。

だが、張遼にはそれができなかった。

呂布の語り口があまりに詳細で、そして何より、今の呂布の変貌ぶりがその証明となっていたからだ。

丁原を殺した男が、なぜ今、民を守ろうとしているのか。その答えが「未来での後悔」にあるなら、全て辻褄が合う。


「……俺は、曹操に降るのか」

「ああ。お前はそこで才能を開花させる。泣く子も黙る『張文遠』として、天下にその名を轟かせるんだ」


呂布は懐かしそうに目を細めた。

そこには、かつての部下の成功を喜ぶ、純粋な親愛があった。


「だから、お前は俺について来る必要はない。ここで別れて、曹操の下へ行けばいい。それがお前にとって一番幸せな道だ」


呂布はそう言って、立ち上がろうとした。

その背中は、あまりに孤独で、そして大きかった。

自分一人で全ての罪を背負い、泥道を歩こうとする男の背中。


張遼の中で、何かが弾けた。


「……ふざけるなッ!!」


張遼が叫び、立ち上がった。

周囲の兵士たちが驚いて注目する。

張遼は呂布の胸倉を掴み、睨みつけた。


「勝手に俺の未来を決めるな! 曹操だと? あの冷酷な男の下で、俺が幸せになれるだと? 馬鹿にするな!」

「文遠……」

「俺が仕えたいのは、名声でも安定でもない! 俺の武が、魂が震えるような『本物の漢』だ!」


張遼の手が震えていた。

認めたくなかった。丁原の仇を。裏切り者を。

だが、今の呂布は、張遼が幼い頃から憧れていた「理想の武人」そのものだった。

強くて、不器用で、誰よりも優しい。


「あんたは罪を犯した。それは消えない。……なら、一生かけて償え! 民を守り、乱世を終わらせることで、丁原様への詫びと城! 俺がその監視役になってやる!」


張遼は呂布を突き放し、地面に片膝をついた。

それは、主君に対する臣下の礼だった。


「張文遠、これより呂布奉先に従う! ……勘違いするなよ。あんたがまた道を間違えたら、その時は俺がこの手で首を刎ねてやるからな!」


呂布は、目を丸くして張遼を見下ろし、やがてくしゃりと顔を歪めて笑った。

その目尻には、再び光るものが浮かんでいた。


「……ああ。頼む、文遠。俺の背中は、お前に預ける」


呂布が手を差し出す。

張遼はその手を強く握り返した。

その瞬間、張遼の全身を熱い奔流が駆け巡った。

『覇王の共鳴』。

張遼の中に眠っていた「武の才」が、リミッターを外され、覚醒を始めたのだ。


風が止んだ。

星空の下、二人の英傑が再び結ばれた夜。

呂布軍に、最強の遊撃隊長・張遼文遠が加わった瞬間だった。

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