第3話:業火の都、二つの至宝
洛陽は、死に瀕していた。
かつて栄華を極めた漢王朝の心臓部は、今や紅蓮の炎に包まれている。
董卓が放った火は、宮殿を、市場を、民家を無差別に舐め尽くし、夜空を昼間のように赤く染め上げていた。
悲鳴。崩落音。そして、略奪に走る董卓軍兵士たちの狂った笑い声。
地獄。そう呼ぶに相応しい光景だった。
その地獄の只中を、一つの軍団が疾走していた。
「――邪魔だ! 道を空けろッ!!」
先頭を駆ける呂布の一喝が、炎の爆ぜる音さえもかき消す。
赤兎馬の巨体が、道を塞ぐ瓦礫を跳躍し、略奪に夢中な董卓兵を蹴散らす。
その後ろを、華雄率いる三千の兵が続く。彼らの目は据わっていた。
「略奪は許さん。だが、略奪者は殺していい」
呂布のその命令が、彼らを単なる兵士から「秩序の執行者」へと変えていた。
「おい、見ろ! あれは呂布将軍だ!」
「ひ、ひえぇ! 逃げろ! 殺されるぞ!」
略奪を行っていた董卓軍の小隊が、呂布の姿を見るや否や、奪った金品を放り出して蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。
呂布の悪名、そしてその圧倒的な武威は、味方(董卓軍)にとっても最大の恐怖の対象だった。皮肉なことに、その恐怖が今、洛陽の民を守る盾として機能している。
「公台! 金蔵への道は!」
「このまま大通りを直進! 右手の太学(大学)を抜けた先です!」
馬上で地図も広げずに即答する陳宮。
彼の頭の中には、すでに洛陽の全地図と、炎の延焼予測までもが叩き込まれているようだった。
覚醒した軍師の脳は、混沌とした状況をチェス盤のように整理し、最適なルートを弾き出している。
「よし! 華雄、貴様は別働隊を率いて太学へ向かえ! そこに董卓が捨てていく『技術者』たちが監禁されているはずだ!」
「技術者? ただの職人っすか?」
「ただの職人ではない! 未来を作る宝だ! 一人たりとも死なすな!」
「合点承知!」
華雄が吼え、部隊の半数を引き連れて右へと折れた。
呂布は残りの手勢を率い、さらに奥――宮殿の地下にある秘密金蔵へと馬を走らせる。
***
宮殿の裏手、地下倉庫への入り口付近。
そこには、奇妙な静寂があった。
周囲は火の海だというのに、ここだけは不自然なほど人気がない。董卓軍の警備兵すらいないのだ。
「……おかしいですね」
陳宮が目を細める。
「董卓は金に汚い男だ。運び出せない金銀を地下に隠したなら、厳重な警備を置くはず。それが無人ということは……」
「中に、『番犬』がいるということだ」
呂布は赤兎馬を降り、画戟を構えて地下への階段を見下ろした。
前世の記憶が警鐘を鳴らしている。
董卓軍には、表舞台には出ないが、裏の仕事を一手に引き受ける危険な男がいたはずだ。
呂布が階段を降り、巨大な鉄扉の前まで来たとき。
暗闇の中から、ヒタヒタという足音と共に、一人の男が現れた。
目立たない灰色の文官服。どこにでもいそうな平凡な顔立ち。だが、その瞳だけが、爬虫類のように冷たく、濁っていた。
賈詡(かく)文和。
後に「毒士」と呼ばれ、曹操すら恐怖させた希代の謀略家。
「……おや。火事場泥棒にしては、随分と派手な客が来ましたね」
賈詡は、呂布を見ても眉一つ動かさなかった。
むしろ、退屈そうに欠伸を噛み殺している。
「飛将軍・呂布。虎牢関で消えたと聞いていましたが、まさかこんな所におられるとは。……董卓様を裏切りましたか?」
「裏切りではない。見限ったのだ」
呂布は画戟を突きつけることなく、ただ静かに賈詡を見据えた。
「賈詡。貴様、董卓に命じられてここの見張りか? それとも、自分の懐を温めるために残ったか?」
「どちらでもありませんよ」
賈詡は肩をすくめた。
「私はただ、『生き残る確率の高い方』を計算していただけです。董卓軍について長安へ行っても、いずれ破綻するのは目に見えている。かといって、ここで連合軍に捕まれば首を刎ねられる。……さて、どうしたものかと考えていたところに、貴方が来た」
賈詡の目が、値踏みするように細められた。
「呂布将軍。貴方は、ただの筋肉ダルマだと思っていましたが……どうやら違うようだ。その目、まるで数年先の未来を見てきたかのような目をしている」
ゾクリと、呂布の背筋が粟立った。
この男、勘が良いどころの話ではない。俺の本質を、一目で見抜こうとしている。
だからこそ、こいつが必要なのだ。
綺麗なことだけでは国は守れない。この男の持つ「毒」が、いずれ俺たちを救う薬になる。
「賈詡。俺についても、生存確率は保証できんぞ。俺はこれから、天下全ての英傑を敵に回すつもりだからな」
呂布はニヤリと笑い、手を差し出した。
「だが、退屈はさせん。俺の下に来れば、お前のその腐った性格を存分に活かせる場所を用意してやる。……どうだ? 燃え落ちる城で野垂れ死ぬのと、俺と地獄を旅するのと、どっちがマシだ?」
賈詡は、差し出された手を見つめた。
計算。損得。リスク。彼の脳内で、瞬時に数百のシナリオが構築され、破棄されていく。
そして数秒後。
賈詡は、初めて人間らしい、歪んだ笑みを浮かべた。
「……フフ。地獄の旅ですか。悪くない。安定した破滅より、不確定な混沌の方が、私の性には合っている」
賈詡が、呂布の手を取った。
その瞬間、呂布は感じた。陳宮の時とは違う、冷たく粘つくような力が流れ込んでくるのを。
それは「信頼」ではない。「共犯者」としての契約だった。
「では、手土産を差し上げましょう。この扉の中には、董卓が隠した金五万貫と、玉器・絹織物が山のように眠っています。……それと、もう一つ」
賈詡は懐から鍵を取り出し、鉄扉を開いた。
「長安への補給ルート、および董卓軍の将軍たちの弱みを記した帳簿です。これがあれば、貴方はいつでも董卓の喉元に噛み付けますよ」
「ハッ、性格が悪いな。最高だ」
呂布は笑い、陳宮に目配せした。
陳宮は、賈詡という危険人物の加入に顔をしかめつつも、その能力は認めたようで、無言で頷く。
光(陳宮)と闇(賈詡)。
呂布軍の頭脳となる二つの歯車が、ここで揃ったのだ。
***
一方、華雄が向かった「太学」の一角。
そこは、すでに半壊していた。崩れた屋根の下に、逃げ遅れた数十人の男たちが身を寄せ合っている。
彼らは兵士ではない。薄汚れた作業着を着た、職人や学者崩れの集団だった。
「おい、大丈夫か! 生きてる奴は返事をしろ!」
華雄が瓦礫を素手で退けながら怒鳴る。
その巨体に怯えながら、一人の少年がおずおずと進み出た。
ボサボサの髪に、分厚い眼鏡をかけた、ひ弱そうな少年だ。手には何やら奇妙な木製の模型を大事そうに抱えている。
「あ、あの……わ、我々は……技術局の……」
「おう、お前が責任者か? 名は?」
「ば、馬鈞(ばきん)……と、申し、ます……」
馬鈞。
その名を聞いた瞬間、遅れて到着した呂布の目が輝いた。
間違いない。歴史書に名を残す天才発明家。魏の皇帝に仕え、数々の奇想天外な兵器を作った男だ。前世では、その才能を活かしきれずに埋もれていったと聞く。
「馬鈞! 無事か!」
呂布が馬から飛び降り、少年の肩を掴んだ。
あまりの勢いに、馬鈞は悲鳴を上げて腰を抜かす。
「ひぃっ! こ、殺さないで……僕は何の役にも立たない、ただの、役立たずで……」
「役立たず? 誰がそんなことを言った」
「え……?」
「その手にあるものを見せてみろ」
呂布は、馬鈞が抱えていた木製の模型を取り上げた。
それは、小さな車輪がついた奇妙な箱だった。中には複雑な歯車が組み込まれている。
「こ、これは……『指南車』の、改良型で……歯車を組み合わせることで、どの方角を向いても人形が南を指すように……あ、でも、上司には『子供の玩具だ』って捨てられて……」
馬鈞は俯き、今にも泣き出しそうだ。
だが、呂布は真剣な眼差しでその模型を見つめ、歯車を指で弾いた。
カチリ、と精巧な音がして、車輪が回る。
「……すげえ」
呂布の口から漏れたのは、純粋な感嘆だった。
武力にしか興味がなかった前世の俺には、この凄さは分からなかっただろう。だが今の俺には分かる。この小さな歯車の中に、未来を変える可能性が詰まっていることが。
「こいつはすげえぞ、馬鈞! これを応用すれば、風に関係なく一定の速度で連射できる弩(いしゆみ)や、石を十倍遠くへ飛ばす投石機も作れるんじゃないか?」
「え……?」
馬鈞が顔を上げた。
その瞳に映っていたのは、自分をゴミのように見る大人たちの目ではなく、まるで新しい宝物を見つけた子供のように目を輝かせる、最強の武人の顔だった。
「理論上は……か、可能です。でも、そんな予算も、理解してくれる人もいなくて……」
「俺がいる!」
呂布は断言した。
「金ならある。今、地下から五万貫奪ってきたところだ。それを全部お前にやる!」
「ご、五万貫!? 全部!?」
「ああ! だから馬鈞、俺のために作れ。お前の頭の中にある『すごいもの』を、全部形にしてみせろ! 俺はお前の技術が見たいんだ!」
ドクン、と。
馬鈞の心臓が跳ねた。
生まれて初めてだった。自分の才能を、変人扱いせずに「すごい」と認めてくれた人がいた。しかも、それが天下無双の飛将軍・呂布なのだ。
馬鈞の中で、何かが弾けた。
萎縮していた才能の蕾が、呂布という太陽の光を浴びて、爆発的に開花する音が聞こえた。
「……はい、はいっ! 作ります! 僕、作れます! 呂布様のために、すごいものを、いっぱい!」
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、馬鈞は叫んだ。
その背後で、陳宮が呆れたように、しかし満足げに溜息をつく。
賈詡は、興味深そうにその光景を観察している。
炎上する洛陽。
その赤き空の下で、呂布軍団の「力(呂布・華雄)」、「知(陳宮・賈詡)」、「技(馬鈞)」、そして「富」が揃った。
役者は揃った。
あとは、この混沌の大地へ打って出るだけだ。
「全軍、撤退だ! 目指すは北! この業火を背に、俺たちは新しい時代へ旅立つぞ!」
呂布の号令と共に、膨れ上がった荷駄隊と兵士たちが動き出す。
背後で轟音と共に宮殿が崩れ落ちたが、誰も振り返らなかった。
彼らの目は、煙の向こうに広がる、まだ見ぬ北の大地を見据えていたからだ。
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