第2話:修羅の帰還、または英雄の夜明け

虎牢関を背にした呂布軍の行軍は、奇妙なほど静かだった。


早朝の冷気が支配する荒野を、三千の兵と数百の騎馬が進んでいる。本来ならば、これだけの軍勢が動けば馬蹄の響きや鎧の擦れる音、兵士たちの私語が騒音となって周囲に撒き散らされるはずだ。だが、今の彼らを包んでいるのは、張り詰めた緊張感と、底知れぬ困惑の静寂だった。


無理もない。

彼らはつい数刻前まで、「董卓軍の先鋒」として連合軍と死闘を演じていたのだ。それが、突如として現れた呂布の一声によって戦場を離脱し、主君であるはずの董卓に無断で東へ――帝都・洛陽へと向かっている。

これは軍規違反どころではない。明白な「謀反」である。

通常の兵士ならば、動揺し、脱走者が出てもおかしくない状況だ。だが、そうはなっていない。

その理由は、先頭を行く二人の男の背中にあった。


真紅の毛並みが美しい巨馬・赤兎に跨る呂布奉先。

そして、その少し後ろを、傷だらけの鎧のまま追随する巨漢・華雄。


この二人が放つ「気」が、三千の兵士を物理的に繋ぎ止めていた。

特に華雄の変化は劇的だった。以前の彼は、部下に対して怒鳴り散らし、恐怖で統率するタイプの武将だった。だが今の華雄は、静かだ。まるで憑き物が落ちたかのように穏やかな顔をしているのに、その全身からは触れれば斬れるような鋭利な闘気が立ち昇っている。

兵士たちは本能で悟っていた。「今、この将軍から離れてはいけない」と。


「……大将」


行軍のリズムを崩さぬまま、華雄が短く声をかけた。

呂布は視線を前方へ向けたまま、顎だけで応える。


「兵たちが、不安がってやすぜ。無理もねえ。ついさっきまで殺し合ってた相手に背を向けて、親分(董卓)に喧嘩売って逃げ出したんだ。ここが何処に向かう道なのか、本当のところを知りてえはずだ」


華雄の言葉には、部下を思う不器用な優しさが滲んでいた。

前世の呂布ならば、「黙って従え」と一喝していただろう。あるいは、不安がる兵士を斬り捨てて見せしめにしたかもしれない。

だが、今の呂布は違う。

彼は手綱を緩め、赤兎馬の歩調を少しだけ落とした。


「逃げ出した、ではない」


呂布の腹の底から響く声は、風に乗って隊列の後方まで届いた。

兵士たちの耳が、ピクリと反応する。


「俺たちは『選んだ』のだ。沈みゆく泥船から、新たな巨船へと乗り換えることを」


呂布は馬上で振り返り、三千の兵士たちを見渡した。

その双眸には、魔性の輝きが宿っていた。未来を知る者だけが持つ、絶対的な確信の光。それを見せつけられた兵士たちは、蛇に睨まれた蛙のように硬直するが、不思議と不快感はない。むしろ、心臓が熱くなるような高揚感を覚える。


「董卓は終わる。これは予言ではない、確定した未来だ。奴は洛陽の富を食い潰し、民を虐げ、最後にはその肥え太った腹を自らの欲望で破裂させて死ぬ。……貴様らは、そんな男のために死にたいか?」


静寂。誰も答えない。だが、その沈黙は肯定だった。

董卓軍の兵士といえど、人の子だ。故郷があり、家族がいる。略奪と殺戮の日々に、彼らの心は磨耗しきっていた。華雄がそうであったように、彼らもまた、導き手を求めていたのだ。


「俺は洛陽へ行く。だが、董卓を守るためではない。奴が捨てていく『宝』を拾うためだ」


呂布は拳を握りしめ、天を突くように掲げた。


「金銀ではない。この国を支える技術、知恵、そして未来だ! 俺はそれら全てを奪い取り、誰も見たことのない最強の国を作る。そこでは、理不尽な命令で民を殺すこともない。無能な主君のために無駄死にすることもない。あるのは、力ある者が正しく報われ、弱き者が安心して眠れる鉄の秩序だけだ!」


呂布の声が熱を帯びる。それは演説というよりは、魂の咆哮だった。

前世で守れなかったもの。失って初めて気づいた、本当に欲しかったもの。それらへの渇望が、言葉の一つ一つに重量を与えていた。


「ついて来い! 俺が貴様らを、ただの『賊軍』から『英雄の軍』へと変えてやる! 呂布奉先という名に懸けて、二度と貴様らに惨めな思いはさせん!」


一瞬の空白の後。


「――おおおおおおおおっ!!」


誰からともなく、歓声が上がった。それは波紋のように広がり、瞬く間に三千の兵士全員の雄叫びとなって荒野を震わせた。

彼らは理解したわけではない。呂布の語る「最強の国」が具体的にどんなものか、想像もつかないだろう。

だが、信じることはできた。

この男の背中についていけば、何かが変わる。昨日までの腐った日々とは違う、鮮烈な明日が待っている。

その直感だけが、彼らを突き動かしていた。


「……へっ、口が上手くなったもんだな、大将」


華雄がニヤリと笑い、兜の緒を締め直した。その瞳には、かつてないほどの光が宿っている。


「これなら、地獄の底までついて行く甲斐があるってもんだ」


呂布は微かに口端を吊り上げ、再び前を向いた。

洛陽までは、あと半日の距離。

そこで待つ運命との再会に、呂布の胸は早鐘を打っていた。


***


陽が高くなり始めた頃、呂布軍は洛陽の西、郊外の街道に差し掛かっていた。

そこは、戦火から逃れようとする難民や、逆に洛陽へ向かう商人たちでごった返しているはずの場所だった。

だが、目の前の光景は異様だった。


人はいない。代わりに、黒煙が空を覆っている。

遠くに見える洛陽の城壁から、どす黒い煙が立ち昇っていたのだ。


「……始まったか」


呂布が低く呟いた。

董卓による洛陽焼き討ち。史実(まえ)よりも少し早い。おそらく、虎牢関での戦況――華雄の敗死というイベントが消滅したことで、董卓の猜疑心が早まり、撤退計画が前倒しになったのだろう。

歴史は変わり始めている。俺の行動一つで、バタフライ・エフェクトのように世界が歪んでいく。

その事実に、呂布は恐怖ではなく、武者震いを覚えた。自分が世界の中心にいるという実感。


「大将! あれを!」


先行していた斥候が戻り、息を切らせて指差した。

街道の先、一本の松の木の下に、一人の男が座り込んでいた。

粗末な衣服を纏い、草鞋は擦り切れ、一見すればただの流浪の民に見える。だが、その男は燃え盛る洛陽を背にして、どこか悠然と、そして冷徹な目で炎を眺めていた。


呂布は息を呑んだ。

忘れるはずがない。あの猫背気味の姿勢。常に何かに不満を持っているような仏頂面。そして、その奥に隠された、天下をも焼き尽くす知性の輝き。


(陳宮……公台……!)


心臓が痛いほどに脈打つ。

前世、白門楼で処刑される直前、彼は俺を見捨てず、共に死んでくれた。俺の無能さに愛想を尽かしていたはずなのに、最後まで軍師としての矜持を貫いた男。

今の彼は、まだ俺を知らない。曹操の下を「こんな主君には仕えられん」と飛び出し、行く当てもなく彷徨っている時期のはずだ。


呂布は馬を降りた。

護衛を下がらせ、一人で男へと歩み寄る。

足音が近づくと、男――陳宮はゆっくりと顔を上げた。

鋭い眼光。値踏みするような視線。


「……飛将軍、呂布奉先か。虎牢関で暴れていると聞いたが、なぜこんな所にいる」


陳宮の声は、記憶の中にあるそれよりも若く、そして棘があった。

呂布は立ち止まり、陳宮を見下ろした。言葉が出てこない。

「会いたかった」と言えば不審がられる。「俺の軍師になれ」と言えば断られるだろう。こいつは、自分が認めた人間にしか頭を下げない偏屈者だ。


だから、呂布は事実だけを告げた。


「曹操孟徳を見限ったか、陳宮」


陳宮の眉がピクリと動いた。

彼はまだ無名の士だ。曹操の元にいたことなど、世間の誰も知らないはずの些事。


「……なぜ、それを知っている」

「知っているさ。お前が、曹操の行う『覇道』という名の虐殺に耐えられず、真の王を探して野に下ったこともな」


呂布は一歩、踏み出した。

威圧するためではない。魂の距離を縮めるために。


「曹操は合理的だ。合理的すぎるが故に、人の心を切り捨てる。お前はそれが許せなかった。違うか?」


陳宮は立ち上がった。痩せた体躯だが、その眼光は呂布の覇気にも負けていない。


「……そうだとして、それが貴公に何の関係がある。噂に聞く呂布奉先は、主殺しの裏切り者。曹操以上に人の心など持たぬ獣だと聞いているが?」


痛い指摘だ。

前世の俺なら、激昂して斬り捨てていただろう。

だが、今の俺には、その言葉の裏にある「期待」が聞こえた。こいつは試しているのだ。目の前の男が、噂通りの獣か、それとも語るに足る人物かを。


呂布は自嘲気味に笑った。


「獣か。……否定はせん。俺はこれまで、力の使い道を知らなかった。ただ暴れ、奪い、壊すことしか能がなかった」


呂布は右手を伸ばした。

その手は、かつて白門楼で陳宮の手を掴もうとして届かなかった手だ。


「だが、獣は夢を見た。全てを失い、鎖に繋がれて死ぬ夢をだ。……その夢の中で、最後まで俺の傍にいてくれた馬鹿な男がいた」

「……夢?」

「ああ。その男は、俺に『頭を使え』と何度も言った。だが俺は聞かなかった。その結果、俺も、その男も死んだ」


呂布の瞳に、深い哀愁と、燃えるような決意が宿る。

それは、初対面の陳宮ですら圧倒されるほどの、重厚な感情の奔流だった。


「陳宮公台。俺には力がある。天を衝く武がある。だが、それだけだ。この乱世を終わらせ、民を守るための『道』が見えん。……俺の目になれ。俺の頭になれ。お前が描く理想の地図を、俺の武力で現実にしてやる」


陳宮は呆気にとられたように口を開き、そして閉じた。

こんな勧誘は聞いたことがない。

初対面の相手に、自分の弱さをさらけ出し、その上で「お前の理想を叶えてやる」と傲慢に言い放つ。矛盾している。無茶苦茶だ。

だが――


(……なぜだ。なぜ、この男の言葉は、これほどまでに胸に響く?)


陳宮の脳裏に、電流のような衝撃が走った。

それは呂布の能力『覇王の共鳴』の発動ではない。もっと根源的な、魂のレベルでの直感だった。

この男は、知っている。自分の孤独を。自分の才能を。そして、自分が心の奥底で求めていた「自分の知恵を託すに足る、純粋すぎる器」であることを。


「……馬鹿げている。私は曹操の合理性を嫌ったが、貴公のような無鉄砲さを愛するつもりもないぞ」


陳宮は悪態をつきながら、埃を払った。

だが、その口元は微かに緩んでいた。


「洛陽は燃えている。董卓は長安へ逃げるつもりだ。……もし貴公が、ただの火事場泥棒で終わるつもりなら、私はここで別れる」

「泥棒? ハッ、人聞きが悪い」


呂布は、ニヤリと笑って赤兎馬の手綱を陳宮に差し出した。


「俺たちがするのは『救済』だ。燃え落ちる都から、未来の種火を救い出す。……手伝え、軍師。お前の知恵で、俺たちを一番儲かる場所へ案内しろ」


陳宮は、差し出された手綱を見つめ、そして呂布の顔を見上げた。

そこにいるのは、噂に聞く「獣」ではなかった。

まだ粗削りだが、強烈な光を放つ原石。自分が磨けば、天下をも照らすかもしれない「王」の器。


陳宮は溜息をつき、手綱を受け取った。


「……やれやれ。貧乏くじを引いた気がしてなりませんが。まあ良いでしょう。この陳公台、貴公のその『夢』とやらに、少しばかり付き合って差し上げます」


呂布の胸に、熱いものが込み上げた。

繋がった。一度は切れた絆が、時を超えて再び結ばれたのだ。


「感謝する、公台」

「礼は結果で示してください。……さあ、急ぎましょう。洛陽の北門、あそこならまだ警備が手薄なはずです。董卓軍の混乱を利用して侵入しますよ」


すでに軍師の顔になった陳宮が、的確な指示を飛ばし始める。

その背中を見ながら、呂布は確信した。

勝てる。

この男がいれば、俺は二度と迷わない。


「全軍、これより陳宮殿の指揮下に入る! 洛陽へ突入し、未来を奪い取るぞ!」


呂布の号令に、華雄と三千の兵が雄叫びを上げた。

燃え盛る帝都・洛陽。

そこには、次なる運命の出会い――稀代の発明家・馬鈞と、毒の軍師・賈詡が待っている。

修羅と化した呂布軍の、最初の伝説が始まろうとしていた。

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