第1話:虎の目覚め、龍の決別
虎牢関の戦場に、奇妙な静寂が落ちていた。
先ほどまで轟いていた怒号も、剣戟の音も消え失せている。
数万の兵士たちの視線が、ただ一点――戦場の中央に立つ二騎の武者に注がれていたからだ。
一人は、鬼神の如きオーラを纏う呂布奉先。
もう一人は、呂布に命を救われ、全身から湯気を立てて荒い息を吐く華雄だ。
「……助太刀、感謝いたす」
華雄が、ひび割れた愛刀を鞘に納めながら、馬上で頭を下げた。
その声は震えていた。恐怖ではない。目の前の男から放たれる、圧倒的な「格」に当てられた震えだ。
「礼には及ばん。だが、華雄よ」
「はっ」
「貴様、いつまで董卓(あのブタ)の番犬をやっているつもりだ?」
呂布の口から放たれた言葉に、華雄だけでなく、周囲にいた董卓軍の兵士たちも息を呑んだ。
董卓。今の朝廷を牛耳り、暴虐の限りを尽くす魔王。その名を、事もあろうに養子である呂布が侮蔑を込めて呼んだのだ。
「りょ、呂布将軍……? 滅多なことを……」
「華雄。俺は知っているぞ」
呂布は赤兎馬をゆっくりと華雄に寄せ、低い声で囁いた。
「貴様は董卓の命で村を焼き、民を殺すたびに、人知れず酒を浴びて泣いているそうだな」
華雄の巨体がビクリと跳ねた。
図星だった。
華雄という男は、見た目の粗暴さに反して、根は純朴な武人だ。主君の命令だからと手を汚してはいるが、その心はとっくに悲鳴を上げている。
前世の俺は、そんな華雄の葛藤など気にも留めなかった。「弱い奴が悪い」と切り捨てていた。
だが、今の俺には見える。こいつの魂が、救いを求めて叫んでいるのが。
「な、なぜそれを……」
「貴様の剣を見れば分かる。迷いがある剣だ。だから、あんな赤ら顔(関羽)ごときに遅れを取る」
呂布は画戟の石突きで、華雄の胸板をドンと小突いた。
「武人なら、誇れる主のために剣を振るえ。民を虐げるためではなく、民を守るためにその剛力を使え」
「……誇れる、主……」
「そうだ。董卓はもうすぐ死ぬ。洛陽を焼き払い、己の欲望と共に滅びるだろう。貴様もその泥船と心中する気か?」
呂布の瞳には、確信に満ちた光が宿っていた。
それは、単なる予測ではない。まるで「見てきた」かのような説得力を持って、華雄の心臓を鷲掴みにした。
華雄は感じていた。先ほど、呂布と共鳴した瞬間に体内で弾けた力の奔流を。
この男についていけば、自分は変われるかもしれない。ただの「人殺しの道具」から、真の「武人」へと。
「呂布将軍……いや、奉先殿」
華雄は兜を脱ぎ、乱れた髪を風になびかせながら、真っ直ぐに呂布を見つめた。
「俺は、馬鹿な男だ。難しいことは分からねえ。だが、あんたの背中が、今まで見た誰よりもデカく見えることだけは分かる」
「フン、世辞はいい」
「本心だ。……連れて行ってくれ。あんたが往く『覇道』とやらに」
華雄が馬上で拳を胸に当て、最敬礼を取る。
その瞬間、呂布は再び感じた。華雄の魂と自分の魂がカチリと噛み合う音を。
最初の一人。
未来を変えるための、最初の歯車が動き出したのだ。
「良かろう。まずはこの戦場を終わらせるぞ」
呂布は手綱を引き、連合軍の陣営に向き直った。
そこには、関羽の背後に控えていた劉備、張飛、さらには曹操や袁紹の軍勢が、蟻の如く群がっている。
だが、恐れはない。
今の俺には、覚醒した華雄がいる。そして何より、自分自身の力が満ち溢れている。
「聞けェェッ!! 連合軍の有象無象どもッ!!」
呂布が腹の底から咆哮した。
その声だけで、大気がビリビリと振動し、最前線の馬たちが怯えていななく。
「今日は興が削がれた! これ以上、俺の前に立つなら全員挽き肉にしてやるが……命が惜しい奴は失せろッ!」
殺気。純度百パーセントの、暴威の塊。
関羽ですら、脂汗を流して馬を退かせた。曹操が目を細め、袁紹が狼狽する。
誰も動けない。たった一人の武将の気迫に、十万の軍勢が金縛りにあっている。
「……引くぞ、華雄」
「はっ! え、戦わないので?」
「今の董卓のために戦う義理はない。それに、急がねばならんことがある」
呂布は踵を返すと、呆気にとられる連合軍を尻目に、悠々と赤兎馬を歩かせ始めた。
背中を見せても、誰も撃ってこない。撃てないのだ。
虎牢関に、伝説が刻まれた瞬間だった。
***
自陣に戻った呂布は、即座に行動を開始した。
休む暇などない。歴史の分岐点は、刻一刻と迫っている。
「華雄。貴様の手勢は何人残っている?」
「へ? ああ、俺の直属なら三千ほどですが……」
「十分だ。すぐに荷をまとめろ。軽い武具と食料だけでいい。一刻(二時間)後に出発する」
「はあ……どこへ?」
「洛陽だ」
呂布は、天幕の地図を指差した。
そこには、帝都・洛陽が記されている。今はまだ栄華を極める都。だが、数日後には灰燼に帰す運命にある場所。
「董卓は、連合軍の勢いにビビって遷都を強行するつもりだ。その際、洛陽に火を放つ」
「火を!? まさか、帝都を燃やすなんて正気の沙汰じゃ……」
「奴は正気ではない。だから滅びるのだ」
呂布は地図を強く叩いた。
「俺たちは、董卓が火を放つ混乱に乗じて、奴の『一番大切なもの』を奪って逃げる」
「大切なもの? 金銀財宝ですか?」
「それもある。だが、もっと重要なものだ」
呂布の脳裏に、前世での後悔が蘇る。
技術。兵站。そして知略。
ただ強いだけでは勝てなかった。国を作るには、それを支える「人」が必要なのだ。
「一人は、希代の軍師。もう一人は、未来を作る技術者だ。こいつらさえいれば、俺たちはどこでだって最強になれる」
呂布は天幕の外へ出た。
風が変わった。血生臭い戦場の風ではない。新しい時代を告げる、嵐の前の風だ。
「行くぞ、華雄。俺たちの国を作るための『略奪』の始まりだ」
華雄は、ニヤリと笑った。その顔には、もはや迷いも陰りもない。
修羅と化した最強の先鋒が、主の命を待っている。
「おうよ! 地獄の底までお供しやす、大将!」
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