第3話 道場の静寂

空手総本部の朝は、静かだった。


広い板張りの床に、素足が並ぶ。

号令は短く、怒声はない。

あるのは呼吸と、身体が沈み、軋む音だけだ。


江原真雄は、道着姿で列に立っていた。

ここでは警護会社の代表でも、仮面の戦士でもない。

一人の指導員として、ただ稽古に身を置く。


「今日は型じゃない」


前に立つ男が言った。

先輩指導員の浅野あさのだ。


「地稽古だ。

 相手の力を、どう使うかを考えろ」


地稽古――。

それは試合ではない。

勝敗も、判定もない。

顔面、金的、肘打ち。

危険とされる技も、良心の範囲内で解禁される。

目的は勝つことではなく、

「どうすれば生き残れるか」を身体に刻むことだ。


二人一組になる。

だが、浅野は列を見回し、江原の前で足を止めた。


「……お前が相手だ」


江原は一瞬だけ目を見開き、すぐに頷く。


「遠慮はいらん」


「はい」


合図はなかった。


次の瞬間、

江原の視界が揺れた。


踏み込みが、見えない。

突きでも蹴りでもない。

体重そのものが、叩きつけられる。


江原は反射的に半身になるが、

肩と肘で受けた衝撃が、そのまま身体の芯まで沈み込む。


――重い。


足が浮く。


床を踏み直そうとした瞬間、

膝を払われ、体勢を崩された。


「……っ」


倒れない。

だが、立てない。


浅野は止まらない。


腕を取られ、

肘が極まる寸前で解放される。


次の瞬間、

逆側からの圧。


呼吸が詰まる。


江原は、何も出来なかった。


受ける。

捌こうとする。

だが、すべてが一手遅い。


技を出す前に、

体勢を奪われている。


――完膚なきまで。


浅野は、江原を投げ倒し、

その横に立ったまま、言った。


「止めるな」


呼吸すら整わない江原に、容赦はない。


再び踏み込まれる。

今度は蹴り。


江原は膝を折るが、

衝撃を逃がす前に、腰を制される。


床に、片膝をつく。


その瞬間、

浅野の掌が、胸元で止まった。


当たっていない。

だが、完全に――終わっている。


静寂。


「……今のだ」


浅野が言う。


「相手の攻撃を受けるな。

 圧縮しろ。

 溜めて、返せ」


江原は、ゆっくりと息を整えながら立ち上がる。


――強い。


頭の中に、

黒装束の戦闘員たちが浮かぶ。


あれよりも、

はるかに。


ショッカー戦闘員よりも、

この人の方が強い。


「実戦も同じ理屈だ」


浅野は続ける。


「型は飾りじゃない。

 生き残るための知恵だ」


江原は、黙って頷いた。


守るための型とは、

力を溜め、返すための知恵。


そして――

本当に恐ろしいのは、

人間の中にいる強さだということを、

この朝、江原は思い知らされていた。



全国大会前日の夜。

江原は駅前の喫茶店を出た。


店内の明かりが背後で遠ざかり、

外気が肌に触れた瞬間、空気が変わる。


視線。

遅れてくる足音。


路地に入った、その時だった。


黒装束の男が一人、踏み込んでくる。


――ショッカー。


腕が伸びる。

刺す間合い。


江原は半身になる。


受けない。

捌く。


前腕で軌道をずらし、

同時に肘関節を内側へ圧縮する。


骨が鳴る。


体勢が崩れた瞬間、

一歩踏み込み、股関節を沈める。


圧縮。

拡張。


肘打ちが、後頚部に入った。


男は膝から崩れ、動かなくなる。


その直後、

腹に熱が走った。


「……っ」


刃物。

浅いが、確実だ。


江原は、その場を離れた。



るり子は江原の恋人であり、

彼が戦いから戻る唯一の居場所だった。


理由は聞かない。

ただ、帰ってきた身体を受け止める。


傷口を洗い、

脱脂綿を詰め、

サラシを巻く。


「無茶しすぎ」


「……明日、大会だ」


「知ってる」


結び終えた手を止め、

るり子は江原を見る。


血と汗にまみれた姿を見て、

小さく息を吐いた。


「……ランボーみたい」


江原は一瞬だけ目を伏せた。


「戦いたいわけじゃない」


「分かってる」


るり子は静かに言う。


「生きて帰って」


それ以上、言葉はいらなかった。



大会当日。

会場は熱気に包まれていた。


江原は帯を締め直し、

腹のサラシを確かめる。


予選、準決勝。

総本部で掴んだ感覚が、生きる。


相手の攻撃を受け、

関節を圧縮し、

反発で崩す。


だが、踏み込むたびに、

腹の奥が軋んだ。


決勝。自由組手。


開始の合図。


踏み込み。

衝撃。


白い道着に、赤が滲む。


「先輩……血が!」


後輩の声。


江原は道着を引き、隠す。


「構うな。続ける」


勝つためじゃない。

立ち続けるためだ。


受け、溜め、返す。


試合終了の合図が鳴った時、

江原は、まだ立っていた。



夕方。

静まり返った道場。


江原は一人、床を拭いていた。


痛みはある。

だが、心は澄んでいる。


守るとは、

倒さないことじゃない。


立ち続けることだ。


江原はゆっくり立ち上がり、

ウンスーの構えを取った。


踏み込みの音が、

ひとつだけ、道場に響いた。

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