第23話狂犬お市様の狂犬印煎餅

天文十六年(西暦一五四七年)

初夏・八月上旬


尾張国・熱田

狂犬堂は――開店した。

それは、静かな開店ではない。

尾張・伊勢・三河を巻き込んだ、予告付きの開店であった。

事前に、藤吉郎と伊賀のくのいち三人娘――

百地さくら、藤林あやめ、服部せつなの“諜報四人組”が、

尾張・伊勢・三河の町、宿場、港、門前町を走り回っていた。

噂、立て札、口伝、ついでに大声。

「熱田に狂犬堂、開店!」

「化粧品と薬と反物と煎餅と団子!」

「八月中旬、三日間!」

「熱田神宮・盆踊り夏祭り大会!」

「特設野外ステージで――」

「狂犬お市様の野外津軽三味線ライブ!新曲発表!」

「一日二回、三日で六公演!」

「チケットは狂犬堂のみ販売!」

立て札は多い。

噂は早い。

尾張の人間は祭りに弱い。

結果――

「数千規模で人が来る」

という、楽観的かつ危険な見込みが、あっさり広まった。

■開店初日・熱田狂犬堂

朝から、熱田の空気が違った。

潮の匂い、線香の匂い、商人の欲、祭りの気配。

その真ん中に、深紅の暖簾。

狂犬堂。

看板は達筆、内容は雑。

つまり、いつものお市様仕様。

私は桃。

祐筆、帳簿係、そして今日も胃痛係。

「……来すぎじゃない?」

開店前から、人だかりができている。

しかも、女だけじゃない。男も子供も多い。

まつ「なにこれ、祭り前なのに祭り始まってへん?」

寧々「煎餅の匂いが……強い」

藤吉郎「……胃が……胃が……」

藤吉郎は今日も光っている。

化粧品テストの成果で、頭も顔もつるつるだ。

■狂犬印煎餅、投入

お市様の指示は、実に単純だった。

「まずは、煎餅じゃ」

化粧品?

薬?

反物?

違う。

煎餅で腹を掴め。

味噌・醤油・塩。

焼きたて。香り全開。

しかも――

「子供には、無料で配れ」

私は耳を疑った。

私「……姫様、原価が……」

お市様「未来への投資じゃ」

私「こわい……」

子供が先に群がる。

子供が食べる。

親が止める。

親も食べる。

男衆A「……うまっ」

男衆B「塩が上品すぎる」

男衆C「味噌、酒が欲しくなる……」

そこへ、お市様。

白い肌、ほのかな香り、世界一の美貌。

男衆の背筋が伸びる。

お市様「むさい顔で食うでない。手を洗え」

男衆「はっ!」

お市様「清潔は、武士の嗜みじゃ」

男衆「おお……!」

寧々(小声)「教育してる……」

まつ(小声)「男の扱い方、上手すぎるやろ……」

■諜報四人組、再確認

店の隅で、諜報四人組が小声で話す。

せつな「なあ、これ……人、想定より多ない?」

あやめ「立て札、効きすぎた」

さくら「噂が噂を呼んでます」

藤吉郎「……三日間六公演で、さて何万人集まるか……」

その言葉を、私は聞き逃さなかった。

私「……何万人?」

お市様が、くるりと振り向く。

お市様「“何万人”ではない」

私「え?」

お市様「“何万”が基準じゃ」

私「胃が死ぬ!!」

■狂犬堂の備え

狂犬堂は、すでに戦時体制だった。

・化粧品

・薬

・反物

・煎餅

・団子

倉は満杯。

人手は足りない。

だが――回る。

子供は煎餅。

女は化粧品。

男は薬と団子。

最後に、チケット。

藤吉郎「チケットはこちら……」

寧々「姿勢」

藤吉郎「はい……」

まつ「笑顔」

藤吉郎「はい……(笑顔)」

せつな「光ってるで」

藤吉郎「言うな!!」

■お市様、締めの一言

忙しさの合間、お市様は煎餅を一枚、上品に割った。

お市様「桃」

私「はい」

お市様「煎餅は入口、祭りは加速、三味線は決定打」

私「……商売の教科書に載せたいです」

お市様「では書け」

私「……はい(祐筆)」

お市様は楽しそうに笑った。

◉桃の祐筆日記

狂犬記/作者:桃

天文十六年(西暦一五四七年)初夏・八月上旬。

狂犬堂、熱田にて開店。

事前に藤吉郎と伊賀くのいち三人が、尾張・伊勢・三河へ宣伝を大量に流した。

八月中旬、三日間、六公演。

熱田神宮盆踊り夏祭り大会と同時開催の、野外津軽三味線ライブ新曲発表。

初日から人が多い。想定以上。

子供に煎餅無料配布は、未来への投資とのこと。

男衆が清潔を意識し始めた。怖い。

「さて何万人集まるか?」と藤吉郎が言ったが、

姫様は「何万が基準」と笑った。

私の胃は限界だが、

これは確実に――

伝説の祭りの前夜である。

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