第20話 狂犬お市様の狂犬式 ――イケメン化計画

天文十六年(西暦一五四七年)初夏・六月下旬。

尾張の空は湿り気を帯び、熱田の港からは魚と銭と人の匂いが混ざった風が吹いていた。

この匂いを「商いの気配」と嗅ぎ分ける者は多い。

だが――それを戦略にまで落とし込む姫は、尾張広しといえど一人しかいない。

清州城。

狂犬家臣団の仮拠点――通称「倉庫(寧々とまつの部屋)」。

藤吉郎は、正座したまま項垂れていた。

藤吉郎「……なあ桃、これ本当に“商い”か?」

桃「はい。“狂犬式”です」

藤吉郎「説明になってない!」

周囲には、帳面、布見本、瀬戸焼の素焼き瓶、怪しい薬草、油壺。

まるで商家と薬屋と戦場が一緒になったような惨状である。

そこへ、涼しい顔で寧々とまつが戻ってきた。

寧々「瀬戸の窯元、口は重いけど仕事は早いわ」

まつ「値切ったら“尾張の女は怖い”言われた」

藤吉郎「正解や……」

桃は淡々と帳面を読み上げる。

桃「現在の進捗です。

藤吉郎様――伊勢湾沿いの船頭衆と熱田商人の仲介。海路確保。

寧々様・まつ様――瀬戸焼の容器発注。

桃――中村で生産拠点となる巨大家屋を確保。

以上です」

藤吉郎「……俺だけ仕事の毛色が違わん?」

まつ「男は外回り」

寧々「ついでに胃も削られる」

藤吉郎「慰めが雑!」

そこへ――

ガラリと戸が開いた。

お市様「おお、よい顔をしておるな。皆、働いておるか?」

その声だけで、空気が一段階“張る”。

藤吉郎(心の声)

――来た。今日も何か始まる。

お市様は机の上を一瞥し、満足そうに頷いた。

お市様「よし。狂犬計画は順調じゃ。――次は“熱田”じゃな」

藤吉郎「……嫌な予感しかしません」

寧々「安心し。だいたい当たる」

まつ「逃げ道はない」

■ 熱田、狂犬堂はこうして生まれた(現場は戦場)

数日後。熱田。

参道と港の境目は、人と荷と声で溢れていた。

船頭は腕組み、商人は目を細め、旅人は財布を握る。

その真ん中に――深紅が降りる。

豊臣号。

馬上のお市様は、海風でも髪ひとつ乱さず、世界一の当然顔で言った。

お市様「ここに、店と土地をよこせ」

商人A「は?」

船頭B「は?」

藤吉郎(心の声)

(“は?”が出た時点で終わる……姫様の勝ちパターン……)

藤吉郎が慌てて間に入る。

藤吉郎「いや、姫様、交渉は順番が――」

お市様「交渉じゃ」

藤吉郎「それ“宣告”です!!」

お市様は、さらっと続けた。

お市様「三ヶ月に三日間、わらわが三味線を弾く。午前午後。人が集まる。銭が落ちる。

ゆえに、店と土地をくれ」

商人衆がざわつく。

船頭が鼻で笑う。

船頭「姫さん。祭りは確かに銭を生むがな、港の銭は“信用”が握っとる」

藤吉郎(心の声)

(来た……正論パンチ……!)

お市様は、にやり。

お市様「だから“格”を上げてやる」

商人A「格……?」

お市様「熱田で一番の人波を作る。おぬしらの店に“行列”を付ける。

行列が付けば、格は勝手に上がる」

商人B「……」

藤吉郎(心の声)

(雑理論なのに、商人に効いてるのが怖い)

そこへ、まつが前へ出た。

まつ「ほな、屋台の動線、港から参道まで“詰まらんように”組みましょ」

寧々「包みは藍染の紐で統一。持って歩くだけで宣伝になる」

桃「帳簿上、“人波は金に変換可能”です。変換効率を上げます」

藤吉郎「お前ら、現場強すぎるやろ!!」

商人が、ゆっくり頷いた。

商人A「……姫さんが来るなら、確かに“祭り”や。

わかった。場所は出す。――ただし、恥をかかせるなよ」

お市様「恥をかくのは、汚い者だけじゃ」

商人衆「……こわっ」

こうして、熱田・狂犬堂は誕生した。

■ イケメン化計画、始動(見本は一人で足りる)

その夜――

藤吉郎は、修行後にも関わらず呼び出された。

お市様「藤吉郎。座れ」

藤吉郎「はい……」

机の上には、石鹸、化粧水、乳液、保湿クリーム。

嫌な並びである。

藤吉郎「……姫様?」

お市様「実験じゃ」

藤吉郎「嫌な言い方!」

お市様は真顔で言った。

お市様「よいか。

女は“美への憧れ”で銭を出す。

男は“汚さへの恥”で銭を出す」

寧々「刺さる男、多いで」

まつ「放っといたら泥やし」

藤吉郎「利家を基準にするな!!」

お市様「男を清潔にする。それだけで病は減り、士気は上がり、統治が楽になる」

藤吉郎(心の声)

――身嗜みは戦力。

――見た目は、支配の入口。

お市様「まずは“見本”が要る」

藤吉郎「……まさか」

お市様「そなたじゃ」

藤吉郎「やっぱりかぁぁぁ!!」

その日から――

藤吉郎は修行後に、洗われ、塗られ、磨かれた。

石鹸で泥が落ち、

化粧水で肌が落ち着き、

乳液でしっとりし、

保湿クリームで艶が乗る。

桃「記録:藤吉郎様、反射率上昇」

藤吉郎「記録すな!!」

数日後。

藤吉郎「……鏡、見てもええ?」

桃「どうぞ」

――そこには、以前より精悍で、清潔感のある男がいた。

寧々「……顔、ちゃんと“武士”になってる」

まつ「ほんまに、話聞きたなる顔になった」

桃「記録:対人交渉成功率、上昇の可能性」

藤吉郎「可能性言うな! もう確定でええ!」

お市様「ほれ見よ」

藤吉郎「……姫様」

お市様「男は“なれる”と思えば変わる」

■ 決定打:イケメン化は“信用”になる

翌日、熱田。

藤吉郎が商人に近づくと、昨日まで腕組みしていた船頭が、目を細めた。

船頭「……お前、昨日と違うな」

藤吉郎「え?」

船頭「汚い男は信用できん。だが――清潔な男は“約束を守りそう”に見える」

藤吉郎は、喉が鳴った。

藤吉郎(心の声)

――見た目が、交渉の扉を開けた。

――これが、姫様の言う“統治”か。

その瞬間。

港の端で、白粉屋らしき男が、こちらを睨んでいた。

目が、売り場を奪われる者の目だった。

桃(心の声)

(……敵が動く)

■ 狂犬堂、始動

熱田。

新たに掲げられた暖簾。

狂犬堂

女は美しくなりたい。

男は格好良くなりたい。

そして――誰もが“上”を見たい。

その“見本”が、ここにある。

藤吉郎は、ようやく理解した。

藤吉郎「……姫様。これは、商いであり、統治であり……戦ですね」

お市様は、にやりと笑った。

お市様「そうじゃ。生活を制する者が、戦国を制す」

こうして、狂犬お市様のイケメン化計画は、

尾張の日常に、静かに牙を立て始めた。

◉狂犬記(作者:桃)

天文十六年(西暦一五四七年)初夏・六月下旬 夜 清州城

本日、熱田に狂犬堂の拠点が確定。

交渉という名の圧であるが、結果は完璧。

藤吉郎様は化粧品実験により、見た目・士気ともに向上。

本人は戸惑っているが、交渉の扉が一つ増えた。

姫様は言われた。

「男は、清潔になっただけで半分勝ちじゃ」と。

戦とは刀だけではない。

今日もまた、狂犬は生活を噛み砕いている。

追伸:

港の端に、白粉屋がいた。

睨みが“商売の恨み”のそれだった。

――次は、面倒になる予感しかしない。

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