第18話 狂犬お市様の狂犬式農業育成政策 ――狂犬堂本舗、爆誕――
――狂犬堂本舗、爆誕――
天文十六年(西暦1547年)
初夏・五月下旬 尾張国・中村
昼下がりの尾張は、初夏の風が甘かった。
田の水面に空が映り、庄内川から引かれた水路が、村を蜘蛛の巣のように巡っている。
――いや。
「……これ、ほんまに中村か?」
藤吉郎が、喉の奥から声を落とした。
その声が、情けないほど小さかったのは――目の前が“村”じゃなかったからだ。
水田は、きっちり区画整理。
畑は直線と直角で構成された幾何学模様。
この時代の農村にあるはずの「だいたい」と「なんとなく」が消えている。
「水平……直角……一直線……」
まつが呆然と呟く。
寧々が、ぽつりと続けた。
「……戦場の布陣みたい」
桃は帳面を抱えたまま、真顔で頷いた。
「“陣”です。しかも、兵が畑です」
「やめて、その言い方。畑が槍持って見えてくる」
まつがツッコむと、藤吉郎はまだ前を見たまま固まっていた。
(……わしの村やぞ)
(……わしの、故郷やぞ)
その“当たり前”が、目の前で塗り替えられていた。
■回っている。全部が。
ゴウン、ゴウン――低い音。
水車が回っている。しかも一つじゃない。
点在する水車小屋の隣には、搾油小屋。菜種油の匂いが甘く鼻に残る。
さらに横には、染料小屋と油小屋。
「油業と……藍染……?」
藤吉郎の喉が鳴った。
寧々が引きつった笑みで言う。
「……これ、もう“村の副業”じゃないよね」
「うん。“産業”やね」
まつが言い切った瞬間、桃が帳面に追記する音がした。
(ザッ、ザッ)
「……桃、いま“産業”って書いた?」
「書きました。胃が痛いです」
「早い!」
■池の中まで、狂犬
遊水池として整備された巨大な溜め池。
水が澄み、影が走る。
「鯉……」
「鰻……」
――そして。
「……スッポン?」
まつが目を丸くする。
「おい、スッポンて高いやつやん。なんでおるん」
「……たぶん、増えるから」
寧々が真顔で言う。
「増えるから、って言い方が怖い」
藤吉郎が、ぼそっと呟いた。
「……姫様、魚まで兵站に入れとる……」
桃が頷く。
「入れてます。たぶん医療にも入ってます。胃が痛いです」
■田植えが“戦”になっている
水田では、中村の男衆が総出で田植えをしていた。
「よいかー! 一気にやるぞー!」
「お市様方式じゃ! 昼までに終わらせるぞ!」
声が飛び交い、動きが早い。
無駄がない。
――いや、無駄がないのが怖い。
藤吉郎が半歩、前に出た。
「……あいつら、前はもっとダラダラやったぞ……」
まつが言う。
「“握手会なし”とか言われたんちゃう?」
寧々「それ、男衆に効きすぎる罰」
桃「治水より統率が先に完成しています」
藤吉郎「なんやそれ……」
笑いたいのに、喉が詰まる。
(村が強くなってる)
(わしの知らん速度で)
■女衆は、工房になっていた
一方、女子衆は織り場に集まり、木綿と麻の反物を次々と織り上げていた。
「反物一反、検品してから次!」
「糸のテンション、そこ気をつけて!」
声が飛ぶ。手が止まらない。
完全に工房である。
寧々が、息を飲んだ。
「……これ、うちらが入る場所、ほんまにあるん?」
まつ「あるで。多分、“回す側”に引きずり込まれる」
寧々「言い方ぁ……!」
桃「逃げ道はありません」
「桃、さらっと言うな!」
■子供が増えた。村の“未来”が増えた。
そして――藤吉郎の実家。
狂犬武家屋敷の中庭には、子供たちが溢れていた。
「せんせー! きょうのべんきょう、ここまでー!」
「ちゃんこ、まだー!」
読み書き、算盤。
終われば給食・狂犬式ちゃんこ鍋。
寧々が、目を細める。
「……ちゃんと学校になってる……」
藤吉郎が呆然と指さした。
「……あれ、うちの田んぼ……」
かつて自分の家の水田と畑だった場所は、巨大な運動場になっていた。
子供たちが裸足で走り回っている。
藤吉郎の胸が、一瞬だけ締まる。
(親父が踏んだ畔が……)
(わしが泥だらけで守った田が……)
……でも。
子供の笑い声が、全部を上書きしていく。
まつが、小声で言った。
「藤吉郎さん。悔しい?」
藤吉郎は、鼻で息を吐いた。
「……悔しい……けど」
「……正しい気もする」
寧々が、静かに頷く。
「それが“国”なんかもね」
桃が帳面に書く。
(ザッ、ザッ)
「……桃、いま“国”って書いた?」
「書きました。胃が痛いです」
「胃しか言わんのか!」
■見渡す限りの薬草畑、その真ん中に
裏手――見渡す限りの漢方薬畑。
緑の匂いが濃い。土が生きている匂い。
桃の声が震えた。
「……全部、薬草です」
その中央。
深紅の旗が風に揺れていた。
狂犬に丸印。雑だが圧が強い。
その下に――暖簾。
狂犬堂本舗
「……」
四人の呼吸が揃って止まった。
藤吉郎、寧々、まつ、桃。
同時に目を輝かせたのは、たぶん“理解した”からだ。
(ここは村じゃない)
(仕組みの核だ)
藤吉郎が、ぽつりと呟く。
「……はじまったな」
■狂犬、現れる。爆誕を宣言する。
背後から、涼やかな声。
「ほう? 気づいたか、藤吉郎」
振り返ると、豊臣号。
その背に――狂犬お市様。
白衣の袖を翻し、世界一の美貌で、にやりと笑う。
「ここが、わらわの基礎じゃ」
指を折る。
「農業」
「工業」
「教育」
「医療」
「すべてを、ここで回す」
お市様は、暖簾の前で指を鳴らした。
「――狂犬堂本舗、爆誕じゃ」
その瞬間。
ちょうど一人、旅の商人が通りがかって、暖簾を見上げた。
「……へえ。薬草と石鹸かい?」
お市様が微笑む。
「買うか」
商人「……いくらだ?」
桃が反射で帳面を開く。
藤吉郎が、息を呑む。
寧々とまつが、同時に背筋を伸ばす。
お市様が言った。
「“正価”じゃ。――領収書も出す」
藤吉郎の胃が、ぎゅう、と鳴った。
(領収書……!)
(文明が来た……!)
桃が泣きそうな声で言う。
「……帳簿が……増えます……」
お市様「増やせ。仕組みは数字で回る」
桃「胃が痛いです」
お市様「薬草がある」
桃「万能すぎます!!」
商人が笑って銭を置く。
ちゃりん。
最初の一銭が、木箱に落ちた。
――狂犬堂本舗が、“店”になった音だった。
◉桃(祐筆私記)
今日、私は見てしまった。
村が、一つの国家になる瞬間を。
お市様は笑っている。いつも通り楽しそうに。
だがこれは遊びではない。
数字と人と土で、未来を組んでいる。
藤吉郎様はずっと考えている。
寧々様とまつ様も必死だ。
……私?
帳簿が増えました。すごく。
胃が痛いです。
でも――この狂犬堂本舗が尾張を変える。
それだけは確信している。
――以上。
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