第17話 狂犬お市様の狂犬式・体操 ――それは体操であり、修行であり、逃げ場はない――

天文十六年(西暦1547年)五月中旬 初夏

卯の刻(午前六時)・清洲城裏手 稽古場

■藤吉郎(今日も朝が来た)

……鐘が鳴る前に、目が覚めた。

いや、正確には――怖くて寝れてない。

「……また朝や……」

隣の部屋から聞こえる、規則正しい呼吸。

お市様である。

寝てるだけで圧がある。意味が分からん。

「藤吉郎」

「は、はいっ!」

呼ばれただけで背筋が伸びる。

もはや条件反射。

犬ですら、ここまで素直ではない。

襖が開く。

涼しい顔。完璧な姿勢。朝の清洲の空気より澄んだ目。

「今日は、新人を入れる」

「……新人?」

「寧々と、まつじゃ」

嫌な予感しかしない。

地獄は人数が増えるほど濃くなる。

「よいか藤吉郎」

「はい……」

「今日から、体操じゃ」

「……体操……ですか?」

お市様はにっこり。

「体操じゃ」

(この人の“体操”は、だいたい命が削れるやつや)

■寧々(卯の刻、地獄の入口)

「……起きてる?」

「起きてる……というか、起こされた……」

倉庫。

昨日まで物置やった場所。

掃除しただけの、簡易住居。

畳は薄い。空気は冷たい。

天井の木の匂いが、妙に“仮住まい”を主張してくる。

「ここ……住み込み……やんな?」

「うん。お市様が“通うのは無駄じゃ”って」

まつは伸びをする。

朝の顔してない。もう戦の顔してる。

「まあ、通勤ないのは楽やろ」

「前向きすぎへん?」

「地獄では、前向きしか生き残らん」

……その瞬間。

ぶおおおおおおーーーー!!!

法螺貝の音が、鼓膜の奥まで殴ってきた。

「……体操や」

まつが言った。

寧々、白目。

(体操の呼び出しが法螺貝て、どんな健康法やねん)

■まつ(狂犬家臣団では、合気道は体操)

稽古場には、すでに桃がおった。

道着姿。帯は黒。

祐筆の姿が“武”に寄りすぎてる。

「おはようございます」

桃はぺこりと頭を下げる。

「本日より、狂犬流合気術の初歩を教えます」

寧々「……合気道?」

まつ「体操……って……?」

藤吉郎が、遠い目で言う。

「ここでは……体操です……」

(あ、これは“言い聞かせ”や。自分に言い聞かせてるやつや)

そこへ、お市様が現れた。

朝日が当たって、顔が発光してる。

発光してるのに、拳が冷静。

お市様は、私らを見て、静かに言った。

「女に必要なのは、力ではない」

(え、急にまとも――)

「身を守る技じゃ」

寧々「……やっと普通のこと言うた……」

お市様は桃に視線を向ける。

「桃」

「はい」

「優しく教えよ」

「……はい(雑)」

桃の“優しく”は信用ならない。

藤吉郎の頭の光ほど信用ならない。

■寧々(体操=投げられる)

桃が言う。

「では、受け身から」

「受け身……?」

「はい。まず前に倒れます」

「え?」

「倒れます」

「ちょ、ちょっと待って――」

――どんっ!

畳が近い。

顔が近い。

人生が近い。

「いった!!」

桃は淡々。

「はい、もう一回」

「えええ!? 体操って反復なん!?」

まつはもう笑っている。

「寧々、顔が畳と友達なってる!」

「友達ちゃう! 一方的に押し付けられてる!」

次。

「まつ様もどうぞ」

「え、うちも!?」

――どんっ!!

まつが起き上がって、目を丸くした。

「……なるほど……」

「理解早いですね」

桃が言う。

「これ、転んでも怪我せんためのやつや……」

まつが頷く。

お市様が満足げに言った。

「うむ。商いも人生も、よく転ぶ」

寧々(転ぶ前提の人生設計……)

「転んだ後、立てる者が勝つ」

藤吉郎(だからって、投げる必要……あるんか……)

桃が続ける。

「次、手首取られた時の外し方」

寧々「え、もう実戦?」

まつ「体操ちゃうやん、実戦やん」

桃「体操です」

お市様「体操じゃ」

(全員で言うたら体操になる世界)

■藤吉郎(体操の次は、当然、食トレ)

稽古が終わった。

終わったはずや。

しかし、お市様は一歩も動揺せず、次を言い放つ。

「次は、ちゃんこ番じゃ」

寧々とまつが同時に叫ぶ。

「はい!?」

「はい!?」

お市様は、当然のように続ける。

「働く者は、食え」

「食えぬ者は、倒れる」

鍋が出る。

狂犬式ちゃんこ鍋。

味噌と昆布。以上。

世界一雑なのに、なぜか旨い。腹が悔しい。

寧々が鍋を見て固まる。

「……量、おかしくないですか?」

お市様「腹一杯食え」

「女性でも、働くなら同じじゃ」

まつが小声で言う。

「これ……嬉しくない平等やな……」

藤吉郎は、すでに無言で食べている。

修行済み。

噛む速度が“諦め”で一定。

寧々「……藤吉郎様、慣れたんですか」

藤吉郎「慣れたんやない……降参したんや……」

まつ「人生の説明が重い!」

お市様「よい心構えじゃ」

(褒める基準が怖い)

■まつ(住み込み決定=即断)

食後。

息つく間もなく、お市様が言う。

「出勤に時間がかかる」

寧々「……あ、はい」

「ゆえに、住め」

「……はい?」

「……はい?」

お市様は淡々。

「桃の部屋の横が空いておる」

「倉庫じゃが、掃除すれば問題ない」

寧々(問題しかない言い方)

寧々が震える声で聞く。

「……断る選択肢は……」

お市様は首を傾げる。

「あると思うか?」

ない。

言い方が優しい分、絶対にない。

藤吉郎が小さく呟く。

「……わし、最初から住み込みや……」

まつ「先輩、顔が遠い!」

藤吉郎「魂も遠い!」

桃が小声。

「……倉庫、雨漏りはしません。今のところ」

寧々「“今のところ”ってやめてぇ……!」

■寧々(昼は中村=実験場に連行)

お市様は、指を一本立てた。

「昼からは、中村へ行く」

「皆、ついてこい」

藤吉郎「え、またですか!?」

お市様「中村は、狂犬領の実験場じゃ」

寧々(実験場て……)

「見て、考え、学べ」

まつが、寧々の顔を覗き込む。

「……考えるって」

寧々「……知恵にしろ、ってやつやな」

まつはニヤリ。

「なあ寧々」

「なに?」

「うちら、もう逃げ道ないで」

寧々は、ため息を吐いて――

でも、口角がほんの少し上がった。

「……うん。でも」

「考えたら……ちょっと、楽しいかも」

まつが笑う。

「それ言える時点で、狂犬向きや」

背後で、お市様が満足げに頷いた気配がした。

「よし。では出陣じゃ」

寧々「出陣……」

まつ「出勤を出陣に言い換えるな!」

藤吉郎「……もうツッコむ元気ない……」

卯の刻の体操。

ちゃんこ番の食トレ。

住み込み決定。

そして中村視察。

……これ、初日やんな?

◉桃の感想(祐筆)

本日より寧々様・まつ様、正式に朝稽古参加。狂犬家臣団において合気術は体操扱いである(異論は認められない)。

受け身を最初に教えるのは理にかなっている。お市様は人生を「転ぶ前提」で設計している節がある。

ちゃんこ番は食トレを兼ねるため量が多い。藤吉郎殿は無言で完食し、諦めが熟成していた。

住み込み決定。倉庫だが雨漏りは(今のところ)しない。

昼より中村視察。狂犬領は本日も拡張中。胃薬在庫、増やすべきか検討。

◉桃の日記(狂犬記)

天文十六年(西暦1547年)五月中旬 初夏

狂犬式体操(合気術)開始。寧々様、畳と急速に親密化。まつ様、理解と順応が早い。

稽古後、ちゃんこ番にて食トレ。平等は時に重い。

住み込み決定。拒否権は存在しない様子。

昼より中村視察。お市様の「見て、考え、学べ」は、命令であり育成であり脅しでもある。

藤吉郎殿はもはや文句が少ない。危険。――以上。

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