第6話 狂犬お市様は、親父殿とうつけ殿に誕生日祝いをもらいにいく ――祝う気持ち? ある。もらう土地? もっとある。――
狂犬記/作者:桃(お市様祐筆)
天文十六年(西暦1547年)正月三日 冬
尾張国・清洲城/清洲屋敷 → 清洲城本丸
正月である。
城下は餅の匂い、味噌の匂い、そして――なぜか戦の匂いがする。
なぜ戦の匂いがするのか。
答えは簡単だ。
我が主君、狂犬お市様が、正月から元気だからである。
■ 正月の清洲:地獄に慣れた男
朝。
藤吉郎殿は庭で素振りをしていた。
去年の今頃なら、ただの草履取り。
いまは――地獄に慣れた男。
背筋は伸び、肩には筋肉が乗り、目つきは精悍。
動きも無駄が消えて、見ていて驚くほど“武士”になってきた。
……だが。
「藤吉郎殿」
「はい、桃どの!」
「その……頭が……」
「……触れるな」
藤吉郎殿は、静かに額のあたりを押さえた。
そう、なぜか髪が抜けている。
抜け方が正月らしくない。縁起が悪いほど抜けている。
「英雄は髪を捨てるんや……」
「それ、どこの英雄理論ですか」
「姫様理論や」
(あの雑理論、人体まで侵食しておる……)
そこへ、お市様がやって来た。
正月の晴れ着姿。帯はきっちり、髪は艶々。
世界一美しい。世界一まぶしい。世界一危険。
「藤吉郎」
「は、はいっ!」
「支度はできたか」
「支度……?」
「正月挨拶じゃ。清洲城に行く」
藤吉郎殿は、ほっとした顔をした。
挨拶。平和。正月。餅。最高。
――と、思ったのは束の間。
お市様が、にこり。
「誕生日祝いをもらいに行く」
「……誕生日祝い?」
「そうじゃ。わらわ、十一歳になった」
「おめでとうございます!」
「うむ。祝え」
「はい!」
「祝いは、親父殿と兄上が出す」
「……え?」
「当然じゃ」
「当然の概念が狂犬!」
■ 夜な夜な実験:何を作っているのやら
正月の空気の中、私は気づいていた。
最近、お市様は夜な夜な台所で“何か”している。
鍋。壺。草。油。布。
匂いは、薬草と味噌と、時々焦げ。
「姫様、夜な夜な何を……」
と聞こうとしたが、やめた。
聞いたら巻き込まれる。祐筆の直感が告げている。
そして今朝も、台所の片隅には謎の瓶が並んでいる。
「桃」
「はい」
「それ、持ってこい」
「……はい?」
指差されたのは、瓶ではない。
――尾張の地図だった。
地図と言っても、正確なものではない。
紙にざっくり川と道が描かれ、丸がいくつも付いている。
丸が雑すぎて、もはや“祈祷札”に近い。
「姫様、その地図……」
「尾張じゃ」
「尾張の何割が姫様の想像ですか?」
「九割じゃ」
「ほぼ妄想地図ぉ!」
お市様は胸を張った。
「妄想ではない。未来予測じゃ」
「言い換えの天才!」
■ 清洲城:信秀&信長の新年会議室
清洲城の奥。
父・織田信秀様と、兄・織田信長様が並んで座していた。
信秀様は豪胆な大将。
信長様は“うつけ”と呼ばれるが、目の奥が鋭い。
新年の挨拶が終わり、空気が落ち着いたその時――
「親父殿」
お市様が一歩前へ出た。
信秀様が、にこり。
「おう、市。正月から元気だな」
「元気じゃ。祝いをくれ」
「……え?」
信長様が眉をひそめた。
「市。祝いとは、正月の挨拶の……」
「違う」
即否定。
「誕生日祝いじゃ。十一歳の祝いじゃ」
信秀様が目を丸くする。
「正月三日に誕生日祝いを要求する姫は初めて見たぞ」
「尾張初じゃ」
「尾張初を誇るな!」
信長様が小さくため息を吐いた。
「……市。何が欲しい」
お市様は待ってましたとばかりに地図を広げる。
ばさっ。
「ここじゃ」
「……どこだ」
「ここ」
「丸が雑すぎて分からん!」
「分からぬのは兄上が馬鹿だからじゃ」
「おい!!」
家臣団が笑いを堪える気配がする。
正月から胃が痛くなる信長様、気の毒である。
信秀様が興味深そうに覗き込む。
「ふむ……川はこの辺が庄内川か?」
「多分の」
「多分かい!」
お市様は丸を指で叩いた。
「中村じゃ」
藤吉郎殿が、ぴくりと肩を跳ねた。
「……中村?」
「藤吉郎の実家周辺じゃ。
この土地、もらうぞ」
場が静まる。
藤吉郎殿の頭の中で、いろんなものが高速回転しているのが分かる。
(え、わしの実家?)
(姫様の誕生日祝いが、わしの村?)
(親父と兄が払う?)
(払うって何を?土地?)
信長様が、低い声で言った。
「市。お前……勝手に……」
お市様はにこにこしたまま、追い打ちをかける。
「兄上」
「……何だ」
「くれるのか、くれぬのか」
「……」
「くれぬなら」
信長様の目が細くなる。
「くれぬなら?」
お市様は、軽く拳を握った。
「殴る」
「脅迫だ!」
信秀様が大笑いした。
「はははは! 市らしい!
信長、お前の胃薬が必要だな!」
信長様がこめかみを押さえる。
「……誰のせいだ……」
私は心の中で頷いた。
間違いなく、市様のせいである。
■ 藤吉郎、気づく:これ、“村救済”では?
信秀様は、地図(妄想)を見て、少し真面目な顔になった。
「中村か。確かに土地としては悪くない。
だが、なぜそこだ?」
お市様は、さらっと言う。
「近いからじゃ」
「理由が雑ぅ!」
だが、お市様は続けた。声がほんの少しだけ柔らかい。
「……中村の者は、働き者が多い」
藤吉郎殿の喉が鳴った。
「姫様……」
「藤吉郎は、そこから来た」
それだけで、藤吉郎殿は理解しかけた。
(……姫様は、わしを鍛えてるだけじゃない)
(わしの“根っこ”まで引き上げようとしてる)
(村を、場所を、未来を……)
藤吉郎殿は、地面に額が付くほど頭を下げた。
「……お市様。
わし、命かけて……お仕えします」
信長様が、ぼそっと言う。
「……最初から命かけておるだろ」
「それでも足りぬ!」
信秀様が笑った。
「よし、市。中村周辺、祝いとして考えてやる」
お市様は満足そうに頷く。
「うむ」
そして、信長様を見た。
「兄上は?」
信長様は、しばらく無言でお市様を見つめ――
「……分かった。
ただし、勝手に領地の真似事をするな」
お市様は即答。
「する」
「するなと言った!!」
「するなと言うなら殴る」
「戻るな!」
正月の会議室は、今日も平和である(当社比)。
■ 帰り道:藤吉郎の胸に残ったもの
清洲城を出た後、藤吉郎殿は、ぽつりと私に言った。
「……桃どの」
「はい」
「姫様……たぶん……」
「はい」
「わしの実家を……守ろうとしてる」
私は小さく頷いた。
「……そう見えます」
藤吉郎殿は、頭を押さえながら笑った。
「……髪は抜けても、
心は折れませんな」
(いや、髪は折れている)
だが私は言わなかった。
祐筆とは、余計なことを言わない職である。つらい。
桃の感想(祐筆として)
・正月三日に誕生日祝いを要求する姫は、尾張史上初である(私調べ)。
・妄想地図(九割)で領地を要求するのは、もはや“外交”である。
・藤吉郎殿が、お市様の意図を理解し始め、忠義がさらに深くなった。
・信長様の胃が心配。胃薬部門の拡充を検討したい。
桃の日記(狂犬記/作者:桃)
天文十六年(西暦1547年)正月三日 冬
本日、お市様は清洲城へ正月挨拶に赴かれた。
目的は挨拶ではなく、十一歳の誕生日祝いの要求である。
お市様は尾張地図(九割妄想)に丸を付け、
中村周辺の土地を「ここもらうぞ」と宣言。
信秀様は大笑い。信長様は胃が死にかけた。
藤吉郎殿は、自分の実家周辺が祝いになると知り、驚きつつも、
お市様の意図を理解しようと努力していた。
忠義が深まり、目が真っ直ぐになっている。
ただし髪は減っている。
姫様の鍛錬の副作用と思われる。
対策は未だ不明。
――以上。
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