第4話 狂犬お市様の狂犬式ブートキャンプ――英雄の話(雑)と、地獄の始まり――

狂犬記/作者:桃(お市様祐筆)

天文十五年(西暦1546年)師走九日 冬

尾張国・清洲城/清洲城下

冬の朝は、音が硬い。

風が障子を叩く音も、庭の砂利を踏む音も、すべてが冷たく響く。

だが――清洲城の朝は、さらに硬い。

なぜなら、我が主君は、十歳にして狂犬。

起床は当たり前に卯の刻(※まだ暗い)。

そして暗いほど、機嫌が良い。

「桃」

「はい」

呼ばれた私は筆を持って控える。

この呼び方は、だいたい“地獄の予定”を告げる合図だ。

お市様は縁側に立ち、白い息を吐いた。

冬の空気の中でも、肌の艶は負けない。

おそらく昨日の香草が効いている。

美の維持は、戦よりも厳しいらしい。

そして、お市様は言った。

「藤吉郎を連れてこい」

(来た)

■ 召集:木下藤吉郎、弟子二日目

藤吉郎は走ってきた。

昨日の熱田お使いで、精神がやや削れている。

だが、顔は生きている。偉い。

「お市様! 本日もっ……!」

「うむ。修行じゃ」

「はい、修行……」

藤吉郎の声が少し震えた。

(修行=生存試験)

清洲城下では、すでに噂になっている。

狂犬姫が弟子を取った

弟子が毎朝、死にそうな顔をして走っている

しかもその姫、世界一美人

なのに拳が速い

尾張は今日も平和である(当社比)。

お市様は藤吉郎を上から下まで見て、首を傾げた。

「まだ温いの」

「温いって何ですか!?」

「鍛え方が足りぬということじゃ」

「まだ始まって二日目です!」

「二日目だからこそ大事じゃ」

お市様は、さも当然のように言った。

「今日から、わらわの修行メニューに“本格的に”参加せよ」

「……本格的?」

藤吉郎の喉が鳴った。

「昨日は、まだ“お試し”じゃ」

「昨日、あれでお試し!?」

「うむ。今日から本番じゃ」

(本番……)

私は胃が痛くなった。

なぜなら、私は祐筆であり、観戦者であり、記録係である。

記録係は“見てしまう”職業である。つらい。

■ 英雄の話(雑な理論)

お市様は藤吉郎の前に立つ。

冬の光が差し、髪がさらりと揺れる。

美しい。眩しい。危険。

藤吉郎が、ぽつりと呟いた。

「……姫様、今日も……綺麗です……」

お市様は、にこり。

「知っておる」

最強の返しである。

そして、お市様は突然、語り始めた。

「昔、英雄がいた」

藤吉郎と私は同時に背筋を伸ばした。

この語り口は、だいたい“無茶の前振り”だ。

「その英雄は、女子供に優しい英雄であった」

藤吉郎が、ほっとした顔をした。

「ほう……優しい……」

「だが、修行には容赦がない」

「やっぱり!?」

お市様は続ける。

「雨の日も」

「はい」

「風の日も」

「はい」

「雪の日も」

「はい……」

「嵐の日も」

「嵐!?」

「毎日毎日、三里を走り」

「三里!? 毎日!?」

「腕立て伏せ」

「はい……」

「腹筋」

「はい……」

「背筋」

「はい……」

「スクワット」

「はい……」

「――千回」

藤吉郎の顔が、固まった。

「……千回?」

お市様は、さらっと言い直した。

「千回じゃ」

「百回じゃなく!?」

「百回は準備運動じゃ」

「準備運動の概念が狂犬!」

お市様は、さらに雑理論を重ねた。

「あるとき、気がついたら天下無双じゃった」

「因果関係が雑すぎる!!」

「よって」

お市様は、世界一の美貌で藤吉郎を見つめ――

にっこり笑った。

「やれ」

藤吉郎は一瞬、恋に落ちかけた。

だが次の瞬間、絶望に落ちた。

「はいぃぃぃぃ……!」

ここに、地獄の始まりが宣言された。

■ ブートキャンプ開始:清洲城下・朝の道

「まずは走るぞ」

お市様は言った。

「三里じゃ。ついて来い」

「姫様、三里って……」

「二里は昨日走ったじゃろ」

「昨日は“命からがら”です!」

「なら今日も命からがらじゃ」

「理由になってない!」

お市様は、軽く地面を蹴った。

次の瞬間、もう前方にいる。

速い。

十歳の脚力ではない。

たぶん前世が混ざってる。

藤吉郎は慌てて追う。

「ま、待ってください姫様ぁぁ!」

清洲城下の朝。

まだ店も開かぬ道を、二人が走る。

通りすがりの魚売りが目を丸くする。

「おい、見たか」

「見た。姫様が走っとる」

「弟子も走っとる」

「弟子、泣いとる」

尾張の朝は平和だ。

お市様は走りながら言う。

「藤吉郎、姿勢が悪い」

「走ってるだけで精一杯です!」

「口が動くなら脚も動く」

「鬼!」

「狂犬じゃ」

名乗った。

■ 腕立て:百から始まる絶望

三里を走り終えたころには、藤吉郎は白目になりかけていた。

お市様は涼しい顔。息も乱れていない。

「次、腕立てじゃ」

「ま、待ってください、心臓が……」

「心臓は鍛えれば強くなる」

「雑理論!」

「英雄理論じゃ」

「同じじゃないですか!!」

お市様は地面に手をつく。

背中が真っ直ぐ。美しいフォーム。

「見よ。これが正しい腕立てじゃ」

「姫様、腕立てまで美しいのズルい!」

「美は努力じゃ。藤吉郎、百回」

「百回!?」

「準備運動じゃ」

「準備運動の恐怖!」

藤吉郎は震えながら腕立てを始めた。

「いち……に……」

「声が小さい」

「いちぃ!にぃ!」

「よい。もっと腹から」

「いぢぃ!にぃぃ!!」

清洲城下に、謎の掛け声が響いた。

■ 腹筋・背筋・スクワット:人はなぜ数を数えるのか

腕立てが終わった頃、藤吉郎は床に突っ伏した。

だが、お市様は言う。

「次、腹筋」

「鬼ぃぃ……」

「狂犬じゃ」

また名乗った。

腹筋百回。背筋百回。スクワット百回。

藤吉郎は途中で、数を数えられなくなった。

「……ひゃ、ひゃく……」

「まだ三十じゃ」

「えっ!?」

「声が弱いから数が逃げた」

「数が逃げる概念!?」

お市様は静かに言った。

「逃げた数は、追いかけて取り戻せ」

「哲学やめて!!」

■ 尾張小ネタ:味噌汁は万能、だが筋肉は嘘をつかない

ようやく稽古が一区切りついたころ、

藤吉郎は地面に転がっていた。

私は水を差し出す。

「藤吉郎殿……生きておられますか」

「……桃どの……人は……なぜ……鍛えるのですか……」

「お市様のためです」

「最悪の答え……」

その背後で、お市様が腕を組み、満足そうに頷いた。

「よいぞ」

「よいんですか!?」

「少しだけ、よい」

「少しだけ!?」

「本番はここからじゃ」

「えっ」

藤吉郎が凍った。

「英雄は千回じゃ」

「姫様、千回は無理です!」

「なら千回できる身体にする」

「だから雑理論!!」

お市様は藤吉郎に近づき、顔を覗き込む。

世界一の美貌が、至近距離。

藤吉郎の心臓が、別の意味で跳ねた。

「藤吉郎」

「は、はい……」

「生きておるか」

「……はい……」

「なら、いける」

「雑ぅぅ!!」

■ 仕上げ:気配読み(今日から増える)

稽古の最後に、お市様は言った。

「今日から気配を読む稽古も足す」

「昨日の“視線”の件ですか!?」

「うむ。尾張は人が多い。敵も味方も多い。

目と耳と肌で感じろ」

お市様は、すっと藤吉郎の背後に回った。

気配が消える。足音が消える。

藤吉郎がびくっとした瞬間、

「ぺしん」

軽く額を叩かれる。

「痛い!」

「今のが“気配”じゃ」

「気配、物理!!」

「物理は真理じゃ」

(また雑理論だ)

私は、筆を握りしめた。

今日の分は書ききれない。

なぜなら藤吉郎の悲鳴が多すぎる。

■ そして朝は終わり、地獄は続く

日が上がり、城下に人が増えてきた。

藤吉郎はふらふら立ち上がり、

自分の手のひらを見て呟いた。

「……豆が……できてる……」

お市様は、にっこり。

「強くなってきたな」

「姫様、褒め方が優しいのが怖いです……」

「わらわは非常に優しい」

「拳が優しくない!」

「救うために殴るのじゃ」

「救われたくない!」

そのやり取りを、城下の人々が見ている。

「あれが噂の狂犬姫か」

「弟子が泣いとる」

「でも姫様、美人だな」

「美人は正義だでな」

尾張の評価はだいたいそれである。


桃の感想(祐筆として)

・お市様の英雄理論は、理論が雑だが圧が強い。

・藤吉郎殿、本格参加初日で生存。よく耐えた。

・気配読みが“物理”で始まった。先が思いやられる。

・「美人に見つめられて地獄」は、尾張名物になる可能性がある。


桃の日記(狂犬記/作者:桃)

天文十五年(西暦1546年)師走九日 冬

本日より、藤吉郎殿はお市様の修行メニューに本格参加。

お市様は「昔、英雄がいた」と語り、

雨風雪嵐でも毎日三里、腕立て腹筋背筋スクワット千回で天下無双になったと仰った。

理論は雑だが、姫様が美しいので藤吉郎殿は逆らえない。

結果、藤吉郎殿は地獄を見た。

ただし生きている。偉い。

追記:気配読み稽古が追加。

額を叩くのは気配ではなく暴力だと思うが、姫様に言うと私が叩かれるので書くだけにする。

胃薬を増やす。

――以上。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る