第3話 藤吉郎、熱田にお使いに行く ――代金は父上と兄上が払う(謎理論)――
狂犬記/作者:桃(お市様祐筆)
天文十五年(西暦1546年)師走八日 冬
尾張国・清洲城 → 熱田
世の中には、
「聞かなければよかった」
という言葉がある。
本日の藤吉郎は、まさにそれだった。
「藤吉郎」
朝靄の残る清洲城。
縁側に正座し、湯気の立つ白湯を飲んでいた藤吉郎は、
その声を聞いた瞬間、背筋を叩き直した。
「は、はいっ!」
振り向いた先に立つのは――
織田市様、十歳。
今日も今日とて、顔が良い。
今日も今日とて、目が笑っていない。
「そなた、熱田へ行け」
「……熱田、ですか?」
藤吉郎は、喉を鳴らした。
清洲から熱田。距離としては「お使い」。
だが、狂犬様のお使いは、だいたい命が減る。
「これを買ってこい」
差し出された紙切れ。
小さい。
しかし、嫌な予感だけは、異様に大きい。
藤吉郎が覗き込み、固まった。
「……字が……」
「読めぬか」
「読めません!」
即答である。
生き残る男は、無理をしない。
「桃」
「はい」
私が受け取り、目を通す。
――雑。
達筆なのに、内容が散乱している。
戦の布陣を書いたかと思えば、次の行で香草の話になっている。
私は、淡々と読み上げた。
「一、漢方薬用の材料。
胃腸に効く苦い根、乾燥葉、樹皮。
二、化粧水。蒸留酒、花、香草。
三、乳液。油、蜜蝋、粉。
四、保湿クリーム。蜜蝋、油、香り。
五、消毒。焼酎、酢、塩。
……最後に」
一拍置く。
「“良い匂いの草(心に効く)”」
藤吉郎が叫んだ。
「最後、薬じゃないですよね!?」
「薬じゃ」
お市様は、真顔で言った。
「心に効く」
「万能すぎる!」
■ 問題:代金は誰が払うのか
藤吉郎は、恐る恐る聞いた。
「……あの、お市様。
代金は……?」
お市様は、さも当然のように答えた。
「父上と兄上が払いに来る」
「……は?」
「信秀殿と信長殿じゃ」
藤吉郎の思考が止まった。
「……あの、
それって、織田家当主と嫡男ですよね?」
「うむ」
「……薬草代を?」
「うむ」
「……熱田まで?」
「うむ」
三段階で絶望が積み上がる。
「いやいやいや!
来ませんよ!?
殿様が、姫様の化粧水代を払いに、
市(いち)へ来るわけないじゃないですか!」
お市様は、ふふんと鼻で笑った。
「来る」
「根拠は!?」
「わらわが頼んだからじゃ」
最強の根拠である。
私は、祐筆として確認した。
「お市様、もし来なかった場合は……?」
「その時は」
にっこり。
「藤吉郎が立て替える」
「無理です!!
わし、小遣い制です!!」
「知っておる」
「なら言わないでください!」
「よい鍛錬になる」
「何の鍛錬ですか!!」
■ 尾張の冬道、清洲から熱田へ
こうして藤吉郎は、
父と兄が来るという謎理論を背負わされ、
熱田へ向かった。
冬の尾張は、空気が硬い。
田は霜で白く、畦道は冷たい。
だが街道は人通りが多く、
津島・名古屋・熱田と商いが流れる。
途中、行商に声をかけられる。
「兄ちゃん、どこまで行く?」
「熱田です……買い物で……」
「ほう、参詣か。
熱田の宮はええぞ。草薙の剣もある」
「剣じゃないです。
化粧水です」
「……は?」
「姫様用です」
「……大変だな」
理解が早い。
尾張の商人は察しが良い。
■ 熱田の市(いち)――神域と商い
熱田は別世界だ。
参詣人、魚、市場、香の匂い。
冬でも市は立ち、人と情報が集まる。
藤吉郎は、紙を握りしめ、薬種屋を回る。
「胃腸に効く苦いやつ……あります?」
「ある」
「化粧水用の香草……」
「ある」
「乳液と保湿クリーム……」
「……何屋だと思ってる?」
「姫様の命令です」
「……察した」
店主たちは、だいたい同じ反応をした。
そして――
買い物を進めるうちに、藤吉郎は気づく。
(……見られてる)
背中に刺さる視線。
人混みの中でも消えない。
(盗賊か?
いや、違う……もっと……)
藤吉郎は、草履取りの勘で悟った。
(これは……女の目だ……)
怖い。
■ 帰還、そして狂犬の笑み
清洲城に戻ると、お市様はすぐ袋を奪った。
「遅い」
「最速で行ってきました!」
材料を一つずつ確認し、
香草の袋を開け、香りを吸う。
「……よい」
その笑顔が、あまりに美しい。
藤吉郎は、思わず口を開いた。
「……あの、帰り道で、
ずっと誰かに見られてました」
お市様の目が、きらりと光る。
「縁じゃな」
「縁が重いんです!!」
私は帳面に書いた。
――熱田で“視線イベント”発生。
――お市様、嬉しそう。
――将来が荒れる。
そして最後に、お市様は言った。
「では明日から」
嫌な予感しかしない。
「気配を読む稽古も足す」
「やっぱりぃぃ!!」
桃の感想(祐筆として)
・お市様の「父上と兄上が払う理論」、無敵。
・本当に来た場合、熱田が歴史に残る。
・藤吉郎殿、熱田で女性の視線を回収。
・この縁は、確実に後で爆発する。
桃の日記(狂犬記/作者:桃)
天文十五年(西暦1546年)師走八日 冬
藤吉郎殿、熱田へお使い。
漢方薬、化粧水、乳液、保湿クリーム、消毒の材料を調達。
代金は「信秀殿と信長殿が払う」予定。
予定は未定。
胃が痛い。
藤吉郎殿は、帰路で女性の強い視線を感じたと言う。
お市様は「縁」と笑った。
私は胃薬を準備した。
明日から稽古が増える。
胃薬も増える。
――以上。
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