第2話 狂犬お市様の一日 睡眠は四時間、正気はゼロ

狂犬記/作者:桃(お市様祐筆)

天文十五年(西暦1546年)師走四日 冬/尾張・清洲城

尾張の冬は、寒い。

だが、清洲城の姫君の部屋だけは――朝から暑い。いや熱い。いや痛い。

「桃。起きよ」

障子の向こうから声がする。

まだ暗い。鳥も寝ている。私も寝ていた。胃だけ起きている。

「お市様……まだ卯の刻前でございます……」

「卯の刻じゃ。起きろ」

「……卯の刻は“午前四時”でございますよね?」

「うむ」

「人間の起床時間ではございません」

「わらわは人間じゃ」

「……そこ、胸張るところじゃないです」

障子を開けると、そこには今日も世界一の姫君――織田市様(十歳)がいた。

寝起きの私と違って、髪は整い、肌は艶々、目は冴え冴え。

そして両手には、例の赤黒い鋼の手甲(ガントレット)。

すでに稽古前の準備運動を終えている顔だ。

「藤吉郎は?」

「下働きに……いるはずでございます」

「呼べ」

「はい……」

私は小姓を走らせた。

(尾張の城は小姓がよく走る。上が走らせるからだ。平和とは、下が走ること。)

ほどなくして、藤吉郎が現れた。

昨日、突然「婿候補」になった草履取り。

目の下にうっすら隈がある。たぶん寝ていない。可哀想に。

「姫さま、おはようござ――」

「走るぞ」

「話を聞いてぇぇぇ!」

藤吉郎の悲鳴が廊下に響く。

「本日の一日を、叩き込む。おぬしは“英雄”になる」

「英雄って何ですか!? 尾張の英雄って、だいたい首飛びません!?」

「飛ばぬ。わらわが守る」

「守り方が拳なんですよね!?」

いいツッコミだ。だが救いはない。

卯の刻(午前四時) 起床、愛馬で二里

城の裏手の厩へ。

お市様の愛馬――豊臣号が鼻息をふん、と鳴らした。芦毛のサラブレッド、雄。

尾張にサラブレッドがいる時点でおかしいが、うちの姫君は「できる」で片付ける。

「豊臣号。今日も頼むぞ」

お市様が首筋を撫でると、豊臣号は嬉しそうに耳を立てた。

……馬に好かれるのはわかる。

でも、その背中に乗るのが十歳の姫君で、装備がガントレットというのは、世の理が追いつかない。

藤吉郎は、私の隣で震えていた。

「桃さま……わし、馬、乗れません……」

「私もです」

「えっ」

「祐筆は基本、筆で戦います」

「筆で馬に勝てますか!?」

勝てない。

結局、藤吉郎は馬の横を走ることになった。

お市様は馬上から涼しい顔で言う。

「二里じゃ。ついてこい」

「二里って! どこまでぇぇぇ!」

「熱田」

「また熱田ぁぁぁ!」

(※尾張の距離感は雑。熱田は祈りの地であり、走り込みの地でもある。)

冬の道を、藤吉郎が必死に走る。

お市様は馬上で姿勢が美しい。

美しいのに、言葉が鬼。

「背筋を伸ばせ。足音を軽く。呼吸は鼻。口は閉じよ」

「む、無理です……!」

「無理を越えた先が、婿じゃ」

「婿の条件、過酷すぎません!?」

私は横で記録しながら思った。

婿の条件が武士の訓練。

尾張の婚活は、戦である。

辰の刻(午前五時) 朝の走り込み二里

熱田から戻ったと思ったら、今度は走る。

「姫さま……もう走りました……」

「走ったのは“移動”じゃ。今からが“稽古”じゃ」

「理屈が尾張ァ!」

藤吉郎が叫ぶ。

尾張の理屈は強い。赤味噌と同じだ。

お市様は走る。

十歳とは思えぬ脚力。呼吸も乱れない。

藤吉郎は息が上がり、白い息が湯気のように出る。

「姫さま、待って……!」

「待たぬ。戦場で待つ敵がいるか」

「恋は待ってくれますか……!」

「恋も待たぬ。奪え」

藤吉郎が余計に泣きそうになった。

私は、胃がきゅっとなった。

恋が、始まっている気がする。やめてほしい。胃に悪い。

巳の刻(午前六時) 二天一流打ち込み稽古

庭の稽古場。木刀が並ぶ。

しかしお市様は木刀を取らない。

「拳でやる」

「やっぱり拳なんですね!?」

藤吉郎のツッコミが冴える。

お市様は拳の手甲を鳴らした。

「二天一流は本来、二刀。ならば両手で打てばよい」

「刀どこ行きました!?」

「わらわの拳が刀じゃ」

お市様は藤吉郎に木刀を持たせ、自分は拳で受ける。

受けるというか、はじく。

木刀が弾かれて、藤吉郎の手が痺れる。

「痛い痛い痛い!」

「痛みは成長じゃ」

「成長、折れます!」

「折れるな。折れたらわらわが治す」

「治し方が拳なんですよね!?」

私は筆を走らせながら、心の中で合掌した。

(仏さま、藤吉郎殿の骨を守ってください。ついでに私の胃も。)

午の刻(午前七時〜九時) 極真空手稽古

道場。

お市様が帯を締める。

その動きが無駄なく美しい。

美人は、帯を締めても芸術である。なのにやることが武道。

「よいか藤吉郎。型からじゃ。真っ直ぐ打て」

「真っ直ぐってどれですか!」

「わらわの拳を見よ」

「見たら死ぬ!」

「死なぬ」

死ぬ顔してる。

お市様は正拳突きを放つ。

風が鳴った。空気が割れた。

藤吉郎の魂が半歩後ろに出た。

「……姫さま、尾張の姫って、こうでしたっけ……」

「違う。わらわだけじゃ」

自覚があるのが恐ろしい。

巳の刻(午前九時〜十時) 合気道稽古

合気道は静か――のはずだ。

しかしお市様がやると、静かに“倒れる”。

「力を抜け。流れを掴め」

「流れって何ですか!」

「人生の流れじゃ」

「人生の流れで投げないで!」

藤吉郎がふわっと宙を舞い、雪みたいに落ちた。

落ち方が綺麗で腹が立つ。

(いや、藤吉郎にではない。姫君の技の完成度にだ。)

午の刻(午前十時〜十一時半) 弓道稽古

弓場へ。

お市様は弓を引く姿勢が美しい。

まるで絵。尾張の冬空に、矢がまっすぐ飛ぶ。

「桃。見よ。これが“当てる”じゃ」

「はい。綺麗でございます」

「藤吉郎。おぬしもやれ」

「弓なんて触ったことないです!」

「触れ」

「雑ッ!」

藤吉郎が震える手で弓を引く。矢がぷるぷるする。

「的は逃げぬ。逃げるのはおぬしの心じゃ」

「心、今、どっか行きました!」

矢は的の外へ。

お市様はため息一つ。

「当たらぬなら、近づけ」

「近づくのはズルでは!?」

「勝つのが正義じゃ」

尾張の正義、強い。

午の刻(十一時半〜正午) 湯浴みと身だしなみ

ようやく汗を流す時間。

お市様は湯から上がると、髪を乾かしながら言う。

「桃。肌の手入れは、武の手入れじゃ」

「……姫さま、肌が武器ということですか」

「うむ。見ただけで敵の心が折れる」

「それ、戦国最大の兵器です」

「そうじゃ。世界一の美は国家予算じゃ」

意味がわかるようでわからない。

だが、説得力だけはある。悔しい。

午の刻(正午〜午後一時) 遅めの昼餉:お市流ちゃんこ鍋

台所。

湯気が立つ。味噌の香り。鶏の出汁。葱。里芋。ごぼう。

尾張は味噌が強いが、鍋も強い。

「今日の鍋は“赤味噌ちゃんこ”じゃ」

「姫さま、ちゃんこって、相撲取りの――」

「兄者が相撲を取る。なら、わらわがちゃんこを作る。合理的じゃ」

「合理的に見えません!」

藤吉郎は椀を両手で抱え、涙目で食べた。

「……うまい……」

「うまいか」

「うまいです……生き返る……」

「生き返ったら走れ」

「鬼ぃぃぃ!」

私は思った。

鍋は優しい。姫君は優しい。

だが優しさの次に来るのが、拳である。落差で死ぬ。

午後一時〜三時 読書と勉強

食後、お市様は巻物を広げた。

兵法書、薬草の書、地図、算盤の帳面。

十歳の机の上ではない。

「桃。筆」

「はい」

お市様はさらさらと字を書く。達筆。

内容は――「清洲城下の風呂増設案」「石鹸製法の試作」「熱田への流通路整備」。

姫の遊びではない。政策である。

「……姫さま、なぜそこまで」

「清潔は国を強くする」

「武より先に、風呂ですか」

「風呂は裏切らぬ」

名言っぽい。だが勢いで言っている。

藤吉郎は隅で居眠りしそうになった。

お市様が指を鳴らす。

「寝るな」

「……あい……」

「寝るのは夜じゃ」

「夜、四時間しかないです……」

「四時間もある。贅沢じゃ」

贅沢の基準も狂犬。

午後三時〜五時 趣味:日本舞踊と津軽三味線

ここでようやく“姫らしい趣味”――のはずが。

舞踊は優雅。

三味線の音は澄んでいる。

お市様が一曲奏でると、空気が変わる。

本当に、世界一の姫君だと思う瞬間がある。

藤吉郎がぽつりと言った。

「……姫さま、すげぇ……」

お市様は鼻で笑った。

「当然じゃ」

可愛げがない。だが美しい。腹が立つ。

三味線のあと、お市様は急に藤吉郎の頭を見た。

「……藤吉郎」

「は、はい!」

「光っておるな」

「やめてください!」

「保湿が必要じゃ」

「頭にですか!?」

「うむ。後日、実験する」

藤吉郎が絶望の顔をした。

私は、未来の惨劇を予感して胃を押さえた。

午後五時〜六時 夕食

夕餉も鍋。尾張は鍋が多い。寒いから仕方ない。

藤吉郎は箸が震えていた。

「姫さま、今日は、もう、走りませんよね……」

お市様はにっこり。

「走る」

「やっぱりぃぃぃ!」

午後六時〜八時 秘密の研究

夕食後、お市様は奥の小部屋へ。

私が筆と帳面を持って追う。

中には、薬草。油。蜜蝋。布。木炭。小鍋。

鍛冶屋みたいな匂いがする。

「桃。今日の研究は“石鹸”じゃ」

「石鹸……尾張で作れますか」

「作る」

「……はい」

「藤吉郎、頭を貸せ」

「今ですか!? まだ実験って言って――」

「パッチテストじゃ」

「聞いてないぃぃ!」

藤吉郎の頭皮に、ぬりぬり。

お市様の手つきは医者のように丁寧だ。

優しい。すごく優しい。だから余計怖い。

「……しみるか」

「しみません……でも心がしみます……」

「よい兆候じゃ」

「何の兆候ですか!?」

お市様は満足げに頷いた。

「尾張の男どもを清潔にし、“粋”にする。むさ苦しさは罪じゃ」

「また罪!」

「罪じゃ」

藤吉郎が小さく震えた。

「わし、むさ苦しいですか……」

「今はまだ“禿げ鼠”じゃ」

「悪化してるぅぅ!」

私は心の中で突っ込んだ。

(禿げ鼠は悪化ではなく、姫君の語彙が強いだけです。たぶん。)

午後八時〜翌午前四時 就寝

ようやく寝る時間。

藤吉郎は布団に倒れ込んだ瞬間、意識が飛んだ。

人間らしい。

お市様は布団に入る前、私に言った。

「桃。明日も同じじゃ」

「毎日ですか」

「毎日じゃ」

「……藤吉郎殿が死にます」

「殺さぬ」

「死ななくても壊れます」

「壊れたら治す」

「治し方が拳です」

「拳は優しい」

「嘘です」

お市様は笑った。

そして、まるで当たり前のように言った。

「わらわは、姫を演じるのに飽きた。今世は、勝つ」

その目が、静かに燃えていた。

冬の闇より深く、まっすぐな火。

私は筆を握りしめた。

――この姫君の一日を、私は記録し続ける。

未来の誰かが笑えるように。

そして、私が生き残れるように。

胃薬、必須。


桃の感想(祐筆としての所見)

一、本日判明した事実:姫君の一日は武士百人分の稽古量である。

一、藤吉郎殿はツッコミの才能で生き延びようとしているが、姫君は才能を“鍛える理由”にする。

一、尾張の名物は赤味噌だけではない。「狂犬姫」も名物になりつつある。止めたいが止まらない。

一、石鹸研究は有益だが、実験台が常に藤吉郎殿である点に倫理的課題がある(なお本人の同意は取れていない)。


桃の日記(狂犬記/作者:桃)

天文十五年(西暦1546年)師走四日 冬

お市様の一日は、戦であった。

朝は馬、昼は学問、夜は研究、そして拳。

藤吉郎殿は終始、魂が半歩後ろに出ていた。

だが鍋を食べた時だけ、生き返った。鍋は偉大。

石鹸の試作は成功したように見える。

ただし、藤吉郎殿の頭がつやつやし始めた。

本人は泣きそうだった。

私は笑いそうだったが、祐筆なので堪えた。たぶん堪えきれていない。

追記:

明日も同じらしい。

先に折れるのは藤吉郎殿か、私の胃か。

勝負である。負けたくない。

――以上。

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