第1話 狂犬お市様、十歳。今日も世界の中心

狂犬記/作者:桃(お市様祐筆)

天文十五年(西暦1546年)師走三日 冬/尾張・清洲城

尾張の冬は、冷たい。

清洲城の朝は――うるさい。

「ドゴォン!!」

……はい、今日も始まりました。

柱が泣く音で目覚める城など、私はここ以外に知りません。

私は桃。

織田市様の祐筆(ゆうひつ)兼側女。つまり秘書であり身の回り係であり記録係であり――たまに盾である。

盾である必要、あります? 姫君ですよ?

廊下を走る小姓が転げ込んできた。

「桃さま! お市様が……また……!」

「また、柱ですか」

「はい……柱です……!」

柱に謝れ。柱は悪くない。

私は深呼吸して、お市様のお部屋の障子をそっと開けた。

そこにおわすのは――世界一美しい姫君。

織田市様、十歳。

肌は雪より白く、髪は夜の川のように艶。

目は黒曜石みたいに澄んでいて、息を呑むほど整っている。

……なのに。

両手には赤黒い鋼の手甲(ガントレット)。

拳の鎧を嵌めて、木柱に向かって拳を打ち込んでいる。

「ふっ……はっ……!」

「お市様、おはようございます」

「桃。遅い」

「師走三日の冬、まだ卯の刻前でございますが」

「遅い」

基準が狂犬。

私は筆を握る手に力を込めた。今日も記録が増える。

「今日の稽古は、どうなさいますか」

「いつも通りじゃ。だが今日は――“二天一流”を拳で完成させる」

「……剣術を、拳で?」

「剣を持つと手が塞がる」

「それは当たり前です」

「ゆえに、拳に剣を付ける」

「発想が鍛冶屋です」

お市様はふふんと笑って、また柱へ。

「ドゴォン!」

柱、また泣く。

清洲城の柱は丈夫だが、心は持たないでほしい。持ったら絶対病む。

お市様は汗一つかかずに言った。

「桃。今日の予定を言え」

私は巻紙を広げた。

普通の姫君の一日ではない。修行僧か戦闘狂か、どちらかだ。

「起床、卯の刻(午前四時)。愛馬にて――走り込み。打ち込み。型。稽古。稽古。稽古……」

「よい」

「よくありません。寝る時間が」

「寝る」

「二刻(四時間)です」

「十分じゃ」

十分なわけがない。

私は心の中で仏に祈った。

(仏さま。姫君を“普通”にしてくれとは言いません。せめて睡眠を。)

その時、廊下の向こうから大声が飛び込んできた。

「お市さまーーーっ! 信長さまがー!」

小姓が泣きそうな顔で駆け込んでくる。

「また会議を抜け出し、庭で相撲を! 上半身裸で!」

「……尾張の男は、どうして冬に裸になるの」

思わず私がツッコむと、お市様は真顔で言った。

「冷えると燃えるのが尾張じゃ」

尾張の民として、否定しきれないのが悔しい。

「桃。兄者の胃を守りに行く」

「胃でございますか」

「繊細じゃ。放っておくと勝手に痛む」

勝手に痛むのは、私の胃もです。

庭に出ると、織田信長様――十三歳のうつけ殿が、家老衆と相撲を取っていた。

家老衆が止めるほど本気で投げ飛ばされている。

冬に裸、相撲、家老投げ。情報が渋滞している。

「兄者」

お市様が呼ぶと、信長様が振り向いた。

若いのに眼光が鋭い。同じ織田の血――美形で、目が悪い意味で光る。

「……市か」

「朝から何をしておる」

「鍛えておる」

「会議は」

「あとで」

「あとで胃が痛くなるぞ」

信長様の眉がぴくりと動いた。図星である。

信長様の視線が、お市様の両手――ガントレットに落ちる。

「……それは何だ」

「拳じゃ」

「そうではない」

「姫の嗜みじゃ」

「嘘をつくな」

お市様は、可憐に笑った。

可憐な顔で、次の言葉が物騒である。

「兄者。家臣が欲しい」

「……家臣?」

「木下藤吉郎をくれ」

空気が凍った。

冬の尾張でも、こんな凍り方はしない。

家老衆が「は?」という顔をした。

信長様は顎に手を当て、嫌そうに空を見た。胃が痛い顔だ。

「草履取りの……あの猿か」

「猿ではない。禿げ鼠じゃ」

「本人の前で言うな」

「言う。鍛える」

「やめておけ」

「なぜ」

「おぬしに鍛えられると、死ぬ」

「殺さぬ」

「死なぬなら壊れる」

「壊れてよい。英雄になる」

信長様の胃が、今まさに悲鳴を上げたのがわかった。

「……勝手にせよ。ただし、泣くなよ」

「泣くのは兄者じゃ」

兄妹の会話が戦である。

こうして――お市様は藤吉郎を“もらう”ことを決めた。

私はこの時点で確信した。

尾張の歴史が狂う。

そして、私の胃も狂う。

その日の午後。

城の下働きの場に、件の草履取りがいた。

木下藤吉郎。

痩せているが目がいい。動きが軽い。口は達者そうで、愛嬌がある。

……そして、頭の将来が心配である(余計なお世話)。

お市様は堂々と近づき、指を突きつけた。

「藤吉郎」

「へ? ……姫さま?」

「今日から、わらわの者じゃ」

「へ?」

「婿候補じゃ」

「へぇぇぇぇ!?」

その場の全員が固まった。

藤吉郎だけが、魂が抜けそうになっている。

「し、姫さま、わし、草履取りで……」

「ゆえに良い」

「良くないでござる!」

「良い。身分はわらわが上げる」

「ひぇ……」

藤吉郎の顔が青くなる。

だが、お市様はにっこり笑った。

「安心せい。殺さぬ」

藤吉郎がほっと息を吐いた、その瞬間。

「ただし――」

お市様の笑みが、狂犬になる。

「鍛える」

「え?」

「今日から、わらわが主であり、師匠であり、主人兼主人じゃ」

「意味が! 多い!!」

藤吉郎が叫んだ。

私は思った。ツッコミの素質がある。生き残れ。たぶん無理だが。

お市様は続けた。

「まずは走れ。二里じゃ」

「今からですか!? 冬ですよ!? 師走ですよ!? 尾張の風、刺さりますよ!?」

「刺さった方が鍛えられる」

「理屈が狂犬!」

「褒めるな」

「褒めてません!」

私は横で必死に筆を走らせた。

祐筆の仕事は主君の言葉を残すこと。主君の言葉が狂気でも残す。胃が痛くても残す。

藤吉郎は渋々走り出した。

その背中を見送って、お市様がぽつりと言う。

「桃」

「はい」

「歴史は、わらわが書き直す」

その声は静かで、妙に大人びていた。

十歳の姫君の声ではない。

――けれど次の瞬間、いつもの狂犬に戻る。

「まずは尾張の男どもを清潔にする」

「……はい?」

「風呂を増やす。石鹸も作る。髭も剃らせる」

「なぜ急に身だしなみ改革を」

「むさい男は、見ているだけで罪じゃ」

「罪!?」

「罪じゃ」

この姫君、容赦がない。

「それと、尾張名物を増やす」

「尾張名物?」

「味噌は強い。なら、菓子も強くする」

「……尾張の菓子……?」

「甘いだけではだめじゃ。働く者の腹を満たせ。冬は鍋じゃ」

「鍋……?」

「ちゃんこ鍋じゃ」

姫君が、ちゃんこ。

しかも武士団でもないのに。

お市様は胸を張った。

「世界は、わらわを中心に回る」

私は即答した。

「回っておりません」

「回る」

「回っておりません」

「……桃、口が達者になったな」

「祐筆は口も筆も達者でなければ、生き残れませんので」

お市様は満足げにうなずいた。

「よい。おぬしは、わらわの記録係として合格じゃ」

合格も何も、私は最初から逃げられない。

その時、走っていた藤吉郎が遠くから悲鳴を上げた。

「姫さまーー! 二里ってどこまでですかーー!!」

お市様は手を振った。

「熱田まで行ってこい」

「遠いーー!!」

(※尾張の人間は距離感が雑である。)

私は、冬の空を見上げた。

高く、冷たく、澄んでいた。

――この空の下で、歴史が狂う。

狂う中心にいるのは、世界一美しい狂犬姫。

そして私は、その全てを記録する。

……胃薬を用意しながら。


桃の追記(祐筆としての所見)

一、十歳の姫君が「婿候補」を決める速度が、戦並みに早い。

一、兄上の胃は、既に終わっている可能性がある。

一、藤吉郎殿はツッコミが上手い。だが、その才能は救いにならない。

一、尾張の冬に二里走らせる姫君が「慈悲深い」と自称するのは、概念の暴力である

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