第3話
一本松教授が学外調査に出ると言い出したのは、大学の冬季休暇を翌週に控えた午後のことだった。
「片山くん、冬休みは実家に帰るんだろう」
静の実家は千葉寄りの都内にある。大学がある横浜までは時間がかかるので、大学側のアパートで一人暮らしをしている。冬休みは例年帰省していた。
「はい。お正月は稼ぎ時なので」
「三が日が過ぎてから、訪ねてもいいかな」
「いいですけど、うちの寺は有名なところじゃないですよ」
静の実家は寺だ。しかし観光客が訪れるような寺ではなく、地元の人たちが日頃から参拝するようなところだった。地図を見なければまず、辿り着くことができない。
「それは好都合だ。有名どころは、もう人間が守っているからね」
教授の目的はやはり妖怪らしい。子供が冬休みの宿題をこなすように、教授もまたこの機会に妖怪ノートを充実させたいのだろう。
「期待に応えられるか、わかりませんけど」
そう念を押して、一月四日に会う約束をした。
そうは言っても教授にだって私生活があるはずだ。新年早々尋ねてくるわけがないと思っていたが、約束の日、一本松教授は晴れやかな笑顔で現れた。
「新年おめでとう、片山くん」
「おめでとうございます」
境内の掃除をしていた静は、半ば呆れ顔で挨拶をした。この人には私生活はないのだろうか。そういえば教授のことは、妖怪が好きだということしか知らない。
「早速案内してくれるかね」
「いいですよ。今法事中なんで、境内では静かにお願いします」
境内に入った瞬間、教授はぴたりと足を止めた。静にもわかった。視界の端で、何かが揺れている。
「うん、いるね」
「いますね」
境内で妖怪を見かけることは、初めてのことではない。だがそれは、初めて見る妖怪だった。一本松教授が隣にいるからかもしれない。この人にはなぜか、妖怪を惹きつける魅力のようなものがある。研究室にやたらと妖怪が現れるのは、きっと彼のせいだろう。
それは古い掲示板の前にいた。人間の形をしているが、顔がぼやけている。代わりに、首から下げた名札だけがやけにはっきりと見えた。
『賽銭数え』
教授を見上げる。彼は頷いた。
「賽銭箱の管理をしていた妖怪だな。夜な夜な賽銭を数えて、盗まれたりしないように守っていたんだ」
「賽銭箱には鍵がかかっていますよ。賽銭の集計はここではやっていませんし」
正月が終わると、賽銭箱の中身を地元の信用金庫に預けている。賽銭の洗浄と勘定は、そこでやってもらっている。
「もう必要としなくても、役目だけが残ることがある。この妖怪はずっと、ここにいたんじゃないかな」
賽銭数えは僕たちに気がつくと、ぺこりと頭を下げた。ずいぶん礼儀正しい。役目に縛り付けられたまま、どれくらいの間ここにいたのだろう。今も役目を果たすために、賽銭箱の前を行ったり来たりしている。
「真面目ですね。人間よりも働いている」
「違いないね」
教授はしゃがみ込み、妖怪と目線を合わせた。
「もう、大丈夫だよ。お疲れ様」
妖怪はしばらく考え込むように立ち尽くし、それからふっと薄くなった。姿が消えて、名札だけが地面に落ちる。
「行ったみたいだな」
「どこへ?」
「必要とされるところにだよ。その方がきっといい」
教授は名札を拾い上げ、ノートに貼り付けた。
『賽銭数え
出没場所:下町の小寺
特徴:勤勉
備考:責任感が強すぎる』
名前の横に絵も添える。例によって壊滅的だった。
「捕まえないんですね」
「捕まえたら、縛り付けることになるだろう。でも、呼べば戻ってきてくれるかもしれないね」
いい一日だったと教授は上機嫌だ。学外調査を定期的にやろうと言って、足早に帰っていった。あまり想像がつかないが、やはり教授にも私生活があるのだろう。
その夜、母が言った。
「賽銭箱、綺麗になったね」
「当然だろ。今年も信用金庫に預けたんだから」
「中身の話じゃないのよ。ほら、ピカピカ。誰か磨いてくれたのかしら?」
母が指差した先にあったのは、まるで新品のように磨かれた賽銭箱だった。賽銭数えの最後の仕事だったのかもしれない。最後まで真面目で礼儀正しかった。
「うちの寺、もう少しはやるといいな……」
そうしたら、また彼に会えるのかもしれない。
一本松教授の妖怪ノート @miztuka
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