第5話 夜にだけ戻れる場所

その夜、眠るつもりはなかった。

正確に言えば、眠れるとは思っていなかった。


部屋の電気をつけたまま、

鞄を床に置き、

上着も脱がずに椅子に座る。


ポケットの中の紙切れは、

ずっとそこにあることを主張していた。

触れなくても、わかる。


見ない理由は、いくつも浮かんだ。

今さらだとか、

意味がないとか、

過去に縋るのは格好悪いとか。


どれも、もっともらしかった。


それでも、

取り出してしまった。


机の上に広げると、

紙は思ったよりも薄く、

思ったよりも脆かった。


文字は汚い。

勢いだけで書かれた線。

消して、書いて、また消して。


——青は、まだ


一行目で、指が止まった。


続きを読まなくても、

その先に何を書こうとしていたか、

わかってしまった。


——まだ終わっていない

——まだ行ける

——まだ、戻れる


どれも、

今の自分には使えない言葉だった。


なのに、

完全に否定することも出来なかった。


行間に、

言葉より多くの沈黙が残っている。

音にする前に、

置き去りにされた時間。


夜は、

いつもこうだ。


忘れたふりをしていた場所に、

静かに連れ戻してくる。

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