第8話 リセラ
パチパチと音を立てていた薪(まき)が、白い灰を被った赤い炭へと変わる頃。 三人の穏やかな寝息が、夜気に溶け込んでいた。
まだ夜明け前の、濃紺(のうこん)の闇。 地平線の端さえ赤く染まる前の刻限(こくげん)。
だが、イヒョンの瞼(まぶた)は、耳元で目覚まし時計が鳴ったかのようにカッ!と開いた。 十数年間、骨の髄まで染み付いた、恐るべき習慣だった。
彼は強張(こわば)った首を回しながら、音もなく上体を起こした。 肺の奥深くまで入ってくる氷のように冷たい空気に、身体が勝手に震える。
――フゥーッ。
白い息を吐き出しながら、焚き火の残火(ざんか)に砂をかけて消す。 彼が夜通し立ったまま眠っていた馬たちの首筋を撫でている間に、東の空が徐々に紫色へと染まり始めた。
「んぅ……」
衣擦(きぬず)れの音と共に、リセラが毛布を退けて起き上がった。 荷車の上では、エレンが芸術的な寝癖(ねぐせ)がついた髪で、拳で目をこすりながら大あくびをしている。
イヒョンはケラムから貰った地図を広げて言った。
「距離はありますが、地図通りならここから最も近い村へ、今日中に到着できそうです」
三人は手早く簡単な朝食を済ませ、水筒を満たして荷物をまとめた。
出発の直前、イヒョンはケラムの元を訪ね、丁寧に頭を下げた。
「ケラムさん、昨日は本当にお世話になりました。全てあなたのおかげです。感謝します」
ケラムは特有の茶目っ気たっぷりの笑みを浮かべ、手を振った。
「いやいや、そう改まってお礼を言われるほどのことではありませんよ。私も楽しかったですから。過酷な旅路では、持ちつ持たれつです」
「いつか機会があれば、再会できることを願っています」
ケラムは豪快に笑い、イヒョンの手を強く握り返した。
「ハハハ。どうかご無事で。いつの日か、アモリス様のお導きがありますように」
イヒョンは微笑みで応え、荷車に乗り込んだ。
「ハイッ!」
リセラが手首を軽く弾くと、ピンと張った革の手綱(たづな)が空を切り、『ピシッ』と軽快な破裂音を上げた。
十分な休息で艶(つや)を取り戻した馬の尻の筋肉が、力強く収縮しては伸びる。
ギイィィ。
古い木の車輪が砂を押し潰す音と共に、止まっていた風景が徐々に後方へと流れ始めた。
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いつしか赤い衣を脱ぎ捨てた太陽が、頭上で灼熱(しゃくねつ)していた。
乾いた風が吹くたびに混じり込む砂粒が頬を叩き、煮えたぎる熱気に閉じ込められた地平線は、まるで水に濡れた水彩画のように朧(おぼろ)げに揺らいでいた。
その果てしない道の上を、ガタゴトと揺れる一台の馬車が、黙々と轍(わだち)を刻んでいく。
しばらく無言で移動していたイヒョンが、空咳(からせき)をしてリセラを見た。
「私も……一度、馬車を御(ぎょ)してみてもいいでしょうか?」
リセラは意外そうに瞬きをし、すぐに「プッ」と吹き出した。
「御してみたいって……馬を、ですか?」
イヒョンは真剣な顔で頷いた。
「ずっとリセラさんに任せっきりなのが申し訳なくて。私がいた場所では、こういう力仕事は男の役割でしたし、もしもの時のために覚えておいた方がいいと思いまして」
リセラは「分かりました」と頷いたが、口元の笑みは消せなかった。
「いいですよ。ではイヒョンさん、手綱はこうやって持って……。あ、違います。そんなに強く引いたら馬が驚いちゃいます! 赤ん坊をあやすように、優しく合図を送るんです」
イヒョンは馬の顔色を窺(うかが)いながら、慎重に手綱を受け取った。
だが、馬は御者(ぎょしゃ)が変わったことを敏感に察知したらしい。 その無骨でぎこちない手つきが気に入らないと言わんばかりに、「ブルルッ!」と不満げに鼻を鳴らし、勝手に速度を上げ始めた。
荷車がガタガタと激しく揺れ、後ろにいたエレンが驚いて顔を出した。
「うわぁ! おじさん、本当に運転してるの? 馬車がガタガタダンスしてるよ! おじさん、お馬さんに変なこと言ったんじゃない?」
馬車が岩に乗り上げ、大きく傾く。エレンの声も一緒に揺れた。
「うぅ、さっきから地震みたい……。なんかお腹がグルグルして、気持ち悪いかも……。おぇっ」
「エレン、大丈夫?」
「う、うん! 平気! ただ……すっごく不思議で。ねえ、次は私がやってみてもいい? 私ならもっと上手にできると思うんだ!」
荷車は未舗装の悪路を跳ねるように爆走していたが、エレンは車酔いしながらも興奮して喋り続けた。
「お、おい? こいつ、どうして……うわっ、ちょっ、待て……」
イヒョンは焦燥(しょうそう)しきった顔でリセラを振り返り、SOSを送った。 だがリセラは、お腹を抱えて笑うのに忙しく、助け舟を出せる状態ではなさそうだ。
「プッ、最初はみんなそうですよ。慌てないで、ゆっくりです、ゆっくり」
やがて荷車は落ち着きを取り戻し、ゆっくりと前進し始めた。 荒野の上に、三人の笑い声が軽やかに溶けていった。
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本来なら地図にある村へ今日中に到着する目標だったが、初心者御者の拙(つたな)い運転のせいか、荒野の夜は予想より早く訪れた。
イヒョンとリセラは荷車を止め、野営地を探した。 ほどなくして、リセラが雨露(あめつゆ)をしのぐには打ってつけの小さな洞窟を見つけた。
「今夜はここで休みましょう」
リセラの提案に、イヒョンは無言で頷いた。
荷車が止まっても、エレンは泥のように眠りこけていた。
イヒョンはエレンを起こさないよう息を殺し、その華奢(きゃしゃ)な体をそっと抱き上げた。 洞窟の隅に集めておいた干し草のベッドにエレンを寝かせると、カサリという音と共に、青臭い草の香りがふわりと漂った。
パチパチ。
枯れ枝が軽快な音を立てて燃え上がった。 踊るような橙色(だいだいいろ)の炎が、湿った洞窟の壁を暖かく舐(な)め、闇を隅へと追いやる。
外套(がいとう)と引き換えにした堅焼きパンと干し肉が、彼らの夕食だった。 決して豪華とは言えない食事だが、口の中で咀嚼(そしゃく)するたびに、素朴な旨味が染み出してくる。
パチッ、パチッ。
薪(まき)が爆(は)ぜる音の合間に、毛布にくるまったエレンの規則的な寝息がリズムのように混ざり込む。 イヒョンは揺らめく炎を瞳に映しながら、その平穏な呼吸音を静かに聞いていた。
しばらく沈黙を守っていたイヒョンが、慎重に口を開いた。
「リセラさんの……故郷はどちらですか?」
リセラは燃え盛る焚き火を見つめながら、ゆっくりと語り始めた。
「大陸西部の草原地帯にある、小さな村です。馬や羊をたくさん育てている場所でした。 名は、ラティベルナ。 これといった特徴のない田舎ですが、空が広くて、柔らかな風が吹いて……季節ごとに草の色が変わる、そんな場所でした」
イヒョンはその言葉に、静かに目を閉じた。
脳裏に広がる、果てしない緑の海。 風にそよぐ草の波、馬たちが大地を駆ける音、そして濃い土の匂い。
イヒョンは、そこがどんな場所なのか理解したという表情で、リセラを見つめた。
リセラはイヒョンの視線を感じたのか、寂しげに笑って言葉を継いだ。
「夫とも、そこで出会いました。優しくて、勤勉で……口数の少ない人でした」
彼女の微笑みには、切ない思慕(しぼ)が宿っていた。 だが、その笑みはすぐに静かに萎(しぼ)んでいった。
「でも……感情の制御が、上手くできなかったんです。 心がとても脆(もろ)い人でしたから。些細(ささい)なことにも真剣すぎて、すぐに傷ついてしまう。それが結局……『コルディウムの暴走』に繋がってしまったんです」
イヒョンは黙って彼女の話に耳を傾けた。
「突然のことでした。いつもと変わらない一日だったのに、村の寄り合いで誰かの言葉が、夫を深く傷つけたようです。 私も詳しいことは知りませんが、おそらく彼の真心を歪曲(わいきょく)されたか、家族への献身を嘲笑(ちょうしょう)されたのでしょう。 その夜、彼はいつも以上に無口で、夜遅くまで馬小屋から戻りませんでした。 そして……急に家の中が妙に熱気を帯びて、焦げ臭い匂いがし始めたんです」
記憶を掘り起こすのが苦痛であるかのように、リセラは言葉を切り、しばらく焚き火だけを見つめた。
「彼の感情が爆発すると同時に、抑圧されていたコルディウムが制御不能になって溢れ出しました。 まず指先から赤く染まり、皮膚の上に火花が散って……まるで血肉が炎に置き換わったかのように、全身が燃え上がりました。 でもそれは、単に燃えているだけではありませんでした。 彼の感情が実体を持って、生きた火の玉のように周囲を飲み込んだのです。 馬小屋の干し草も、壁も、近くの地面さえも赤く染まり、焼け焦げていきました」
「…………」
「彼から噴き出した炎は、瞬く間に母屋(おもや)まで飲み込みました。 私はエレンを抱いて辛うじて脱出しましたが、火は隣家まで燃え広がり、数人が火傷(やけど)を負いました。 コルディウムの暴走は、あの人を完全に飲み込んでしまった。 何かを燃やして終わるのではなく、存在そのものが溶けてしまったような感覚でした。 ……そしてあの日以来、誰も私たちを以前のようには見てくれなくなりました」
彼女は言葉を詰まらせた。 膝の上の指先が、小刻みに震えている。
パチッ。 焚き火の中で生木が爆(は)ぜる音がして、揺らめく火光が彼女の濡れた目元を照らした。
「あの事件以来……村の人々は私たち家族を恐れました。 最初は慰めるふりをしていましたが、エレンが幼い頃に小さな暴走を起こしてからは、彼らの視線は完全に変わってしまいました」
イヒョンは重々しく頷き、尋ねた。
「エレンも、コルディウムの暴走を経験したのですか?」
「ええ。何度かありました。 幼い頃は理由も分からなくて……。エレンが激しく泣くと、周りの物が吹き飛んだり、気温が急変したり、光が爆発したかのように弾けたりしました。 エレン自身も成長するにつれて、自分を怖がるようになってしまって……」
リセラは深い溜息(ためいき)をついた。
「それで、村から離れた場所へ引っ越したんです。人を避けて、静かな場所で暮らそうと思って。 でも……そんな辺鄙(へんぴ)な場所には、また別の危険が潜んでいるということを、当時は知りませんでした」
イヒョンは静かに頷いた。 彼女の言う「別の危険」が、彼らを拉致した人間狩り(マンハンター)たちであることを容易に察することができた。
馴染みのある感覚だった。
最愛のものを失って失意の底にいる時、世界は慰めるどころか、より残酷に牙を剥(む)く。 その事実を、彼は誰よりもよく知っていた。
「そうして暮らしているうちに、人間狩りたちが急に家を襲撃したんです。村はあまりに遠く、私とエレンには逃げる術(すべ)がありませんでした」
その言葉を聞いた瞬間、イヒョンの目の前に古い記憶がオーバーラップした。
鼓膜を引き裂くサイレンの悲鳴。 鼻を突くタイヤの焼ける臭い。 無残にひしゃげた鉄の塊の中で、血まみれになったまま動かない妻と娘。 いくら揺さぶっても、力なく垂れ下がるだけの冷たい手の感触。
次いで降り注ぐ、カメラのフラッシュの眩しい閃光。 無機質に手帳を走らせる警察のペンの音。 舌打ちしながら噂話をする野次馬たちの軽蔑(けいべつ)の視線が、蜂の群れのように彼を取り囲んだ。
「フゥーッ……」
イヒョンは肺に溜まった黒い煙を吐き出すように、長く重い息を吐いた。 記憶を振り払おうと強く目を閉じたが、胸の奥に突き刺さった古い破片がズキズキと疼(うず)く痛みは消えない。
彼は揺れる瞳で、燃え盛る炎を呆然(ぼうぜん)と見つめていた。
「コルディウムというのは……強力で便利ですが、実に厄介な代物(しろもの)ですね」
彼の言葉に、リセラは静かに頷いた。
「エフェリアでは、コルディウムとの付き合い方が、その人の生き様を決めますから。 でも、制御は容易ではありません。愛が深ければ深いほど、嫉妬や憎悪も比例して膨れ上がり、喜びが大きいほど、喪失の痛みも重くのしかかる。 ……感情は抑え込むのではなく、上手に流すべきだと言われています。まあ、口で言うほど簡単ではありませんけど」
焚き火の向こうで、エレンが身じろぎをした。 イヒョンは顔を巡らせ、少女を見つめた。
小さく、か細い存在。 だが、あの光を放った瞬間だけは、この世界の何者よりも強大な力を感じさせた。
リセラは独り言のように付け加えた。
「エレンはまだ、自分の感情を完全に理解することも、統制することもできていません。父親に似たところがあるようです。だから時々、暴走が起きる。……昨晩のように」
イヒョンは頷いた。
「あの光は……エレンの感情だったのですね。ですが、エレンのおかげで私は命拾いしました」
「ええ。私も詳しくは分かりませんが、おそらく様々な感情が同時に押し寄せたのでしょう。その想いがあまりに純粋だったからこそ、あれほど強く顕現(けんげん)したのだと思います」
赤熱していた炭が白い灰へと崩れ落ち、洞窟の外では荒野の風が獣の咆哮(ほうこう)のように唸(うな)りを上げている。
鳩尾(みぞおち)のあたりが、ずしりと重かった。
まるで澄んだ水にインクを一滴垂らしたかのように、得体の知れない閉塞感が血管を伝って胸の奥へと染み込んでくる。 それは古傷の痣(あざ)のようにあやふやで、夜明け前の影のように青白い重圧感だった。
イヒョンは訳も分からぬまま、疼(うず)く胸を無意識にさすり、枯草の上に身を横たえた。
目を閉じると、割れたガラス片のような記憶が、水面に浮かんでは沈みを繰り返した。 彼は眉間(みけん)にしわを寄せ、『感情』と呼ばれていたものの手触りを、必死に探り当てようとした。
喜び、悲しみ、愛……。
単語は舌先で回るが、味はしない。 焚き火の熱を受ける頬は火照(ほて)っているのに、肝心(かんじん)の心の中は、主(あるじ)を失った廃屋のように寒々としていた。
今この瞬間が『温かい』ということは頭では理解できる。 だが、その温もりがかつてどのように心臓を跳ねさせていたのか――どうしても、思い出すことができなかった。
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