第4話 計画

光の一点さえ届かない、墨を流したような闇。 時間は流れることを止め、その場にネットリと澱(よど)んでいるようだった。


どこかで「ポチャン、ポチャン」と滴(しずく)が落ちる音だけが、沈黙の隙間を埋めている。


イヒョンは湿った石壁に背中を預け、深く沈み込んでいた。


手首を締め付ける手枷が皮膚に食い込み、薄いシャツを通して伝わる氷のような冷気が背骨を這い上がる。 だが、イヒョンは石像のように瞬き一つしなかった。 ただ、自身の低く規則的な呼吸音だけに集中していた。


ふと、イヒョンの視線が、床を這うように近づいてくる小さな影を捉えた。


ジャラリ、ジャラリ。


少女が重い鎖を引きずり、体を小さく丸めながら、彼のすぐそばまで擦(す)り寄ってきたのだ。


垢(あか)じみた紅葉(もみじ)のような手が、鉄格子を強く握りしめる。 指の関節が白くなるほど力が込められ、その指先は止まることなく震えていた。 見上げてくる蒼(あお)い瞳が、今にも零れ落ちそうに揺れている。


だが、イヒョンは依然として微動だにしない。


彼は懇願(こんがん)するような少女の視線を、まるで道端に転がる石ころでも見るかのように、乾いた目で見下ろした。


イヒョンにとって、このような無垢な視線は慣れないものだった。


「おじ、さん……」


少女の声は、まるで絹糸のように細く、頼りなかった。 彼女は躊躇(ためら)いながら言葉を継ぐ。


「お母さんも、一緒に捕まったんですけど……どこにいるのか、分からなくて」


少女は震える手で、自分の服の裾(すそ)をいじった。 イヒョンはその声と仕草から、幼い子供が到底抱えきれない現実への恐怖と、自分に向けられた一縷(いちる)の期待が混じり合っていることを読み取った。


子供は嗚咽(おえつ)を飲み込もうと必死に唇を噛み締め、イヒョンの方へとにじり寄る。


その瞬間、イヒョンは迫り来る少女を重荷に感じた。 小さな女の子と言葉を交わすのは、娘が死んで以来、初めてのことだったからだ。


だが、自分を見つめるその瞳を、どうしても無視することはできなかった。 イヒョンは覚悟を決めたように少し間を置き、重い口を開いた。


「あ……あぁ、そ、そうか。大丈夫……だ。心配、するな。私が、必ず方法を見つけるから。……うむ。今は少し辛くても、い、いや、かなり辛いだろうが……す、すぐに良くなる。だから、ほんの少しだけ勇気を出してみよう。……な?」


イヒョンは、どうにか引きつった笑みを浮かべてみせた。


彼がこの世で最も苦手とするもの、それが子供との会話だった。 無理やり口角を上げたせいで、頬のあたりがピクピクと痙攣(けいれん)しているのが自分でも分かる。


口調は堅苦しく、あまつさえどもってしまったが、子供を安心させたいという気持ちだけは本物だった。


イヒョンは鉄格子越しに、ぎこちない動作で少女に肩を貸した。 少女は一瞬戸惑っていたが、やがて彼の肩にそっと頭をもたせかけた。


肩に触れた少女の頬の感触。 その温もりだけは、闇の中でもはっきりと感じることができた。


どれくらいの時間が過ぎただろうか。 固く閉ざされていた監獄の扉が開き、一人の女性が粗雑に放り込まれてきた。


色褪せた若草色の服はあちこちが擦り切れ、引きずられる左足首からは、床を擦る鎖の音が鉄格子に荒々しく響く。 手首を拘束する冷たい金属の手錠、乱れた茶色の髪の間から覗く青黒い痣(あざ)。


だが、イヒョンの視線は彼女の傷には長く留まらなかった。


ジメジメとしたカビ臭い監獄の闇さえも切り裂くような、鮮烈に燃え上がる翡翠(ヒスイ)色の瞳。 彼女は顔を高く上げ、揺らぎのない視線でイヒョンを真っ直ぐに見据えていた。


まるで、これしきの闇になど、決して自分は飲み込まれないと言わんばかりに。


女性の姿を確認した少女が、悲鳴のように叫んだ。


「お母さん!」


子供はバネのように飛び起き、母親へ駆け寄ろうとしたが、足首を掴む足枷のせいで床に派手に転んでしまった。 女性は慌てて子供に歩み寄り、膝をついて震える手で娘を抱き起こした。


手錠のせいで、互いを強く抱きしめることは叶わない。 代わりに彼女は、縛られた両手を上げて子供の顔を包み込み、そっと自分の額を娘の額に押し当てた。


彼女は潤んだ声で囁(ささや)く。


「大丈夫、お母さんはここにいるわ。……怖がらないで」


彼女が子供の背中を優しくトントンと叩くと、子供はすぐに母親の胸に顔を埋め、声を殺して泣き出した。


その瞬間、イヒョンと目が合った。 彼女は一瞬驚いたようだったが、すぐに冷静さを取り戻し、小さく会釈をした。


その瞳には、生きることへの強靭な意志と、娘への温かな慈愛が共存していた。


しばしの静寂が流れた。


やがて、母親に会えて安心したのか、少女はイヒョンに話しかけてきた。 ここが監獄であることを忘れたかのように、まるで家の庭で友達とお喋りでもするかのように、無邪気に。


イヒョンは相変わらず子供の扱いには慣れなかったが、それでもぎこちなく相槌を打ち、彼女の質問に答えようと努力した。


そんな二人の様子を静かに見守っていた女性が、イヒョンに向かって口を開いた。


「あの……もしよろしければ、お名前を伺っても?」


イヒョンは少しの間彼女を見つめ、短く答えた。


「ソ・イヒョンです」


女性は頷き、薄く微笑んだ。


「私はリセラ。そしてこの子は、娘のエレンです」


「エレンです!」


エレンはイヒョンを見て、花が咲いたように笑った。


イヒョンも軽く頭を下げて応える。 ただ互いの名を名乗っただけだが、冷え切った監獄の空気が、ほんの少しだけ柔らかくなった気がした。


リセラが音もなくイヒョンに近づいてきた。 周囲を一度警戒するように見回し、声を潜める。


「一つ、提案があります」


イヒョンは無言で彼女を見返した。 リセラは揺らぎのない瞳で言葉を継いだ。


「私の持っている情報を共有します。ですから、私たちと一緒にここから逃げましょう」


「どんな情報です?」


「ここへ連行されてきた時に見た、出入り口の位置と建物の構造です。……情報を渡す代わりに、条件があります。私と娘……エレンも連れて行ってください。私一人の力では、この子を守りながら脱出するのは不可能です。あなたの力が必要です」


イヒョンの瞳がわずかに動いた。 リセラは彼の反応を窺(うかが)いながら、切実だが落ち着いた口調で付け加えた。


「これは一方的なお願いではありません。互いに必要な取引(ディール)です。あなただって、ここで無駄死にするか、奴隷として売られるのは御免でしょう?」


イヒョンは短く頷いた。 間違った言葉は一つもない。


「情報から聞きましょう。全ての情報に価値があるわけではない。私自身も脱出は望んでいるが、不確実な情報に命を懸けるわけにはいかない。チャンスは一度きりだ」


「いいでしょう」


リセラは息を整え、記憶の糸を手繰り寄せた。


「拉致された直後、私はエレンと引き離されました。あちこち連れ回されて雑用をさせられている間に、周囲の地形や構造を頭に叩き込みました。この建物の裏門から出て北へ向かうと、外部へ直結する馬小屋(うまごや)があります。砦の正門は堅牢ですが、馬小屋の通用口は脆(もろ)い木の板で塞がれているだけ。……あそこなら、容易に突破できるはずです」


リセラは床に小石と藁(わら)を並べ、奴らが拠点としている砦の内部構造を図解し始めた。


「なるほど」


説明を聞き終えたイヒョンは、両手の指を組み、情報を整理した。


「つまり、ここが中央棟の地下一階。裏門から出て北へ向かえば、寂(さび)れた馬小屋がある……。そこを通れば外部へ脱出可能ということですね? 結構です。ですが動く前に、もう少し奴らの動向を把握する必要があります」


イヒョンはリセラが床に描いた拙(つたな)い地図を凝視し、脳内で脱出ルートのシミュレーションを開始した。


思考の最中、ふと疑問が湧いた。 なぜ彼女は、数多(あまた)いる捕虜の中で、よりによって自分に声をかけてきたのか。


イヒョンは低い声で尋ねた。


「なぜ、私を選んだのですか?」


リセラはイヒョンを真っ直ぐに見つめ、静かな声で答えた。


「あなたは……目の色が違いましたから。もし奴らの『コルディウム』で心が壊されていたら、今のような目をしているはずがありません。 それに、私には他人の感情を読み取る能力があるんです。許可なくあなたを覗(のぞ)き見てしまって、ごめんなさい。エレンのそばにあなたがいたので、危険な人物ではないか確認する必要があったんです」


彼女は少し言葉を切り、続けた。


「何より、あなたからは絶望や死の気配が感じられなかった。エレンも、あなたを信じています」


その言葉に、イヒョンは冷静にリセラを見返して問い返した。


「その……『コルディウム』と言いましたね? 先程の男たちも測定だなんだと言っていましたが、一体それは何なのですか」


リセラは不思議そうに小首を傾げた。


「……あなたを読もうとした時から、何かが違うとは思っていましたが。本当にこちらの世界の方ではないようですね。 感情が物理的な力や現象として発現すること、それを『コルディウム』と呼びます。奴らが測定しようとしていたのは、その力の大きさです。込めた感情が強ければ強いほど、より強力な力を発揮できるのです」


イヒョンは理解に苦しむといった様子で、眉間(みけん)に皺(しわ)を寄せた。


「感情が……力になる、と?」


「はい。喜び、悲しみ、怒り、愛……。全ての感情が力の源(みなもと)になります。人によって適性は異なり、怒りで炎を生み出す人もいれば、愛で癒やしの力を行使する人もいます。 私は感情そのものを読むことに特化しています。もちろん、感情があれば誰でも強力なコルディウムを使えるわけではありません。発現する能力は、先天的な才能ですから」


イヒョンは自嘲(じちょう)気味な笑みを浮かべて尋ねた。


「では、私はどうでしたか?」


リセラは即答できなかった。 彼の内面に、星一つない夜空のように広大で、何もない空っぽの「虚無(きょむ)」だけを感じたからだ。


「ごめんなさい。実は……何も感じられなかったんです」


「…………」


「ただ、あなたが絶望に侵食されていないということ。そして、エレンに対して悪意を持っていないということ。分かったのは、それだけでした」


イヒョンはゆっくりと頷いた。 彼女が最初に監獄へ入ってきた時、自分を見てギョッとした理由がようやく分かった気がした。


「謝る必要はありません」


イヒョンは淡々としていた。 自らの感情が欠落しているレベルを超え、完全に摩耗(まもう)してしまっている事実を、誰よりも彼自身がよく知っていたからだ。


むしろ驚くべきは別にあった。 人の心を読んだり、絶望の淵に叩き落としたりするあの奇怪な力の源が、たかが「感情」ごときから生まれるという事実だ。


そう考えたのも束の間、どうしてそんなことが可能なのかという純粋な疑問が先立った。


「それは、この世界の物理法則のようなものなのですか?」


「おそらく、そうなのでしょうね。空気や水のように当たり前に存在しているので、私は不思議だと思ったことすらありません。自然の摂理ではないでしょうか」


リセラは微笑(ほほえ)みながら付け加えた。


「あなたは本当に不思議な人ですね。こんな当たり前のことを、物珍しそうにするなんて」


それは、本当に久しぶりに見る他人の「笑顔」だった。


地球で見てきた笑顔とは違う。 あちらの世界でも人々はイヒョンに向かって笑いかけたが、その大半は礼儀としての愛想笑いか、あるいは計算高い虚飾(きょしょく)に過ぎなかった。 今リセラが見せているような、飾らない純粋な笑顔は、5年前の事故以来、一度として見たことがないものだった。


イヒョンは静かにその言葉を反芻(はんすう)し、新しい概念を脳内へインプットし始めた。


『ああ。理解できないなら、丸暗記すればいい』


自分には反応しない測定装置、コルディウム、感情が力になる世界。 全てがイヒョンにとっては解けない難題のようだった。 馴染みのない概念だが、自分がここへ飛ばされた理由と無関係ではないだろうという予感がした。


だが、地球へ、家へ帰るためには、まずここを脱出することが急務だ。 そうでなければ、この訳のわからない問題を解き明かす糸口さえ掴めない。


イヒョンは着実に計画を練り上げた。 巡回の時間帯と大まかな人員配置を把握し、奴らの雑談から断片的な単語を拾い集め、情報を構築していく。


そして、計画実行の夜。


彼は眠りに落ちたエレンと、そんな娘を慈愛(じあい)に満ちた眼差しで見下ろすリセラを見つめた。


瞬間。 長く忘れていた、言葉にするのが難しい感情が胸をよぎった。


互いに交わす慰め、心で伝える愛、縛られた手でも決して離そうとしない絆。 それは、どんな宝石よりも熱く、輝いて見えた。


何か温かいものが、胸の奥底から静かに立ち昇るような感覚。


その時だった。 まるで水晶で作られた鏡にヒビが入るように、心のどこかで小さく、微細な亀裂(クラック)が走った。 冷たく凍りついていたイヒョンの内面に、初めて「感情」という名の光が、朧(おぼろ)げに差し込み始めたのだ。


だが、彼はまだ自身の変化を正確には自覚できていなかった。


イヒョンは再び計画を検証した。 その最中、ふとジレンマが彼を襲った。


『私一人ならともかく、彼女たちを連れて行って成功する確率はどれくらいだ? 私のミスのせいで、リセラとエレンが酷い目に遭うことになったら?』


いっそこのまま、大人しく奴隷として売られた方が、彼女たちの命だけは助かるのではないか?


そんな倫理的な苦悩が彼を苛(さいな)んだ。 イヒョンにとっては、まるで正解のない試験問題を解かされているような苦痛だった。


以前の地球とは違い、ここでは完璧な計画など立てようがない。 現状では、これが最善(ベスト)だ。


『いや……これは数学の問題じゃない。答え合わせのできるテストとは違うんだ。今はただ、計画と私の感覚を信じるしかない』


イヒョンは覚悟を決めた。 そして、眠っているリセラの肩をそっと揺り起こした。


「起きてください。……明日の夜明け前、見張りが巡回する時間が勝負です。準備を」


イヒョンはリセラともう一度脱出ルートを確認し、互いの役割を最終点検した。


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