第3話 監禁
イヒョンは、倒れた時に打った頭を、冷たく粗い石壁に預けた。 ズキズキと鈍い痛みが走るが、彼はすぐに雑念を振り払った。
いくら不平を漏らしたところで、現状は1ミリも変わらない。 それを誰よりも理解しているのは、彼自身だ。
イヒョンは即座に状況分析を開始した。
自身のコンディション、監禁されている場所の構造、そして聞こえてくる物音。 彼は断片的な情報をパズルのように組み合わせ、冷静に現状を構築していく。
『この監獄がどこで、奴らが何者かは知らないが……ここから出なくては。どこぞに売り飛ばされるのは御免だ』
彼は意識を覚醒させるために、深く息を吸い込んだ。 混乱を意志の力でねじ伏せ、周囲を観察する。
闇に慣れてきた目が捉えたのは、湿気を帯びた岩肌と、隙間に打ち込まれた錆びた鉄格子。 鼻を突くのは、腐った藁(わら)とカビ、そして酸化した古い血の臭い。
闇の奥からは、重い鎖が床を擦(こす)る音が規則的に響いている。 続いて、獣の唸り声のような――いや、口を塞がれた人間の、押し殺したような呻(うめ)き声が聞こえてきた。
それは演技ではない。 肉が削がれるような苦痛を、生のまま吐き出す生存の喘(あえ)ぎ声だった。
やがて、向かいの鉄格子の奥が、幽霊のように浮かび上がってきた。
狭い空間に、灰色のボロ雑巾のような塊(かたまり)が三つ、四つと転がっている。 目を凝らせば、それは人間だった。
手首と足首を締め付ける黒い足枷(あしかせ)だけが、彼らが単なる荷物ではないことを証明している。 皆、糸の切れた操り人形のように床に突っ伏し、ピクリとも動かない。
左の闇からは、「カハッ、カハッ」と痰(たん)の絡む音が漏れている。 視線を巡らせると、右の隅にうずくまる小さな影が見えた。 膝を抱えて壁に張り付いたその背中は、まるで冷たい石壁の中に溶けて消えてしまいたいと願っているかのように、頼りなく震えていた。
向かいの牢も似たようなものだ。
四人ほどの人間が閉じ込められているが、大半は意識が朦朧(もうろう)としているのか、項垂(うなだ)れたまま微動だにしない。 年齢も体格も肌の色もバラバラだが、鉄格子の向こうで無力に「飼われている」という事実だけは共通していた。
イヒョンは静かに呼吸を整え、集めた情報を脳内で再構築した。
捕まった後に何があったのかは不明だが、今こうして生きており、意識がはっきりしていることが何よりの武器だ。
この世界の言語がラテン語をベースにしていることは把握済みだ。聞こえてくる言葉のほとんどは解読できる。
連行される前に見た外の地形は、断崖と岩、乾いた丘が続く荒野だった。 だが、重力や大気などの基本環境は地球に近い。 対して、現在収容されているこの場所は、窓がないことから地下に作られた石造りの監獄だろう。
思考を巡らせていたイヒョンは、ふと一つの疑問に突き当たった。
『……捕まっている連中の反応が、妙だ』
普通、これほどの理不尽な状況なら、抵抗するか、あるいは逃げようと足掻(あが)くはずだ。 だが、彼らは一様に絶望に沈み、あまりにも無気力だった。 まるで、抵抗する気力そのものを抜き取られたかのように。
その時。 微かな光が漏れる扉の向こうから、金属がぶつかる音と、重い革靴を引きずる足音が近づいてきた。
ギィィィッ――。
重厚な扉が開き、一人の男が低く太い声で詠唱した。
「Canticum desperationis(カンティクム・デスペラティオニス)」
『絶望の歌』
それは、魔法の呪文だった。 瞬間、空気を押し潰すような重く湿った気配が、監獄内を満たした。
男の手から湧き出した黒紫色の霧が、床を這う蛇のように広がり、牢全体を浸食していく。 霧は底なし沼のように、捕虜たちの足元から這い上がり、彼らの身体を絡め取った。
ただでさえ生気のなかった捕虜たちの瞳が、さらに濁っていく。 人形のように空洞化した瞳は、虚空を彷徨(さまよ)い、やがて力なく床へと落ちた。
見えない巨大な手に魂を握り潰されたかのような姿。 窒息しそうな重圧と、内面を食い荒らす絶望感が、津波のように人々を飲み込んだのだ。
だが。
イヒョンには、何の変化も起きなかった。
霧は他の捕虜たちと同様にイヒョンを包み込もうとしたが、まるで不可視の壁に阻まれたかのように、何の影響も及ぼすことなく霧散(むさん)した。
イヒョンはこの奇妙な現象を見逃さぬよう、慎重に周囲を観察した。 他の捕虜たちが糸が切れたように崩れ落ちていく。 この絶望は人為的なものであり、誰かが作り出した魔法による精神攻撃であることは明白だった。
その時、霧の向こうから槍を手にした筋肉質の男が現れた。 その後ろから、強面(こわもて)の男たちが数人、ぞろぞろと中に入ってくる。
男は捕虜たちの間を歩き回りながら、品定めをするように一人一人の顔を覗き込んだ。 手には奇妙な魔道具を持ち、人間の「質」を鑑定しているようだ。
「こいつは痩せっぽちだな。そっちはどうだ? ハズレか?」
「この女は半死にだ。使い物にならん。そっちは?」
男の手が、イヒョンに伸びた。 彼はイヒョンのシャツの襟元(えりもと)を乱暴に掴み、顔を近づけた。
「おや……?」
「面白い顔をしてやがる。目が死んでねぇ」
「変わった野郎だな」
イヒョンは無言のまま、彼らを凝視した。 このような状況下でも、その瞳には憎悪や恐怖といった感情は微塵(みじん)も浮かんでいない。
「さっきこいつを拾ってきた連中が言ってたぞ。こいつはオリスビアの出らしいとな」
筋肉男の後ろにいた別の男が、測定用の魔道具を確認しながら言った。
「そうか? で、数値はどうだ?」
「ゼロだ」
「あぁ? ゼロだと?」
筋肉男は耳を疑い、振り返って仲間を睨(にら)んだ。
「寝言を言ってんじゃねぇ。測定値がゼロの人間なんざ見たことあるか?」
「ああ、クソッ。信じられねぇならテメェが見てみろよ。本当にゼロなんだよ。気が触れて感情が干上がった廃人か、それとも感情を自ら封印してるイカれた野郎か……まあ、どっちも有り得ねぇ話だがな」
「気味が悪いな……。あんな上等な服を着てるってことは、地方貴族以上の身分だろう? なら最低でも中級以上の感応反応が出るのが普通じゃねぇのか」
「全くだ。見た目は上級層の貴公子のくせに、コルディウム反応が皆無とはな」
「ふん……コルディウムが測定できないってことは、実質、虫ケラ以下の存在ってことだ。貴族出身でそんな欠陥品がいるわけねぇだろ」
「こいつ、本当は何者なんだ? ウチの飼い犬だって、仕込めば魔力の真似事くらいはするぞ? クククッ」
「まあいい、下手に力があるよりはマシだ。どうせこんな役立たず、力仕事は無理だ。せいぜい男色(ナンショク)趣味の貴族どもか、神官連中の慰(なぐさ)み者として売れるだろうよ。そっちの方が金になるしな。傷モノにすると商品価値が下がる、丁寧に扱って別枠にしておけ」
イヒョンは最後まで口を閉ざし、何の反応も見せなかった。 彼らの言語を理解できているという事実は、伏せておいた方が得策だと判断したからだ。 ここから脱出するためには、手札は一枚でも多く隠しておく必要がある。
やがて、男たちは数人の捕虜を引きずり出し、監獄の外へと連れ去っていった。 扉が開くたびに細い光が差し込み、外のざわめきが微かに聞こえてくる。
時間は、遅々と流れた。
イヒョンは目を閉じ、呼吸を整えた。 恐怖や怒りに流されることはないが、無力感がないわけではない。
力は使えず、この世界のルールすら分からない。 何より、「魔法」のように見えるあの異質な力を、論理的に理解できていない。
だが、この状況下において感情の欠落(けつらく)は、むしろアドバンテージとなる。 イヒョンは冷徹に思考を整理した。
『この世界には「コルディウム」というものが存在し、その力が無い人間はいない、あるいは極めて稀(まれ)だということか……』
『だが、俺には他の連中とは違い、あの『絶望の歌』という呪文が通用しなかった。もし俺にも効いていたなら、今頃絶望と無力感で精神が崩壊していたかもしれない』
その時、横の方から微かな嗚咽(おえつ)が聞こえてきた。
イヒョンは顔を向けた。 絶望に魂を抜かれた捕虜たちの呻(うめ)きや、鎖が擦れる音だけが支配するこの空間で、明確な「泣き声」が聞こえたのだ。
彼の視線が止まった先に、一人の少女がうずくまっていた。
精々、十歳くらいだろうか。 膝まである灰褐色のワンピースは泥と埃に塗(まみ)れ、捲(まく)り上げた袖口と革靴の踵(かかと)は擦り切れて糸がほつれている。 だが、腰のエプロンの結び目だけは、几帳面なほどしっかりと結ばれていた。
華奢な手首を締め付ける鉄の枷(かせ)が重すぎるのか、少女の肩は小刻みに震えている。 擦り傷だらけのふくらはぎの上へ、漆黒の闇さえも飲み込めない、美しい金色の髪がこぼれ落ちていた。
イヒョンの視線が、少女の顔に吸い寄せられた。
擦り切れるほど泣いて腫れ上がった目元。 だが、その奥にある蒼(あお)い瞳は、涙を溜めながらもイヒョンを真っ直ぐに見つめ返していた。
消えぬ火種のような眼差し。 その小さく弱い体から、生への強烈な渇望が放たれているようだった。
イヒョンは憑(つ)かれたように少女を見つめた。 理由は分からない。ただ、視線が自然とそちらへ向いたのだ。
少女は一瞬イヒョンと目が合うと、驚いたように身を縮めたが、すぐにまた小さく囁(ささや)いた。
「……助けて、ください」
消え入りそうな声だったが、その発音と文法は明瞭だった。
イヒョンが答えあぐねていると、再び誰かが監獄の中へと入ってきた。
今度は背の低いずんぐりとした男と、痩せぎすの長身の男、二人組だ。 ずんぐりした男の手には、コンパスに似た丸い魔道具が握られている。
彼はその奇妙な装置を、イヒョンの目の前に突きつけた。 だが、イヒョンの前に差し出された装置は、ピクリとも反応しない。 針は壊れたように沈黙を守っている。
男は目を細めた。 装置の沈黙を疑わしそうに睨みつけ、低く呟いた。
「……反応なし、か」
「本当だな」
近くにいた長身の男が覗き込み、片眉を上げた。
「おい、壊れてんじゃねぇの?」
「まさか。さっきの小娘の前では派手に鳴ったんだぞ。反応があるなら、光るなり振動するなりするはずだ」
「けど、本当に何の反応もねぇぞ? ツラだけ見れば、どう見ても貴族サマだろうが」
「だから妙だと言ってるんだ。普通、貴族の血筋ならコルディウム数値も高いはずだ。なのにこれは……まるで機械が死んでるみたいじゃねぇか」
二人の男はイヒョンをジロジロと見た。 まるで奇妙な未確認生物でも見るような目つきだ。
「頭(カシラ)に確認したと報告しよう。……まったく、気味が悪いぜ」
二人は、自分たちの理解を超えた結果が出たことを再確認し、足早に監獄を出て行った。
イヒョンは彼らの会話を静かに聞いていた。 専門用語の全てを完璧に理解できたわけではないが、文脈から自分が特異な反応(あるいは無反応)を示したという事実は明白だった。
そして、この世界には『コルディウム』と『感情』を感知する技術があり、それを基に身分や能力を測るという事実も把握した。
イヒョンは再び暗い天井を仰ぎ、思考の海へと沈んでいった。
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