第二章 雪兎
第三話 級友
「千冬さん、昨日はごめんなさい」
翌日、翔子は千冬に頭を下げた。卯野の片付けを手伝った後、彼女は一時間近く遅れて特三Aに駆け込んだ。しかし、電気はすっかり消され、机と椅子だけの味気ない殺風景が広がっていた。
「別に。よくよく考えたらテスト勉強しなきゃだし?」
千冬は目を合わせずに淡々と答えた。彼女が目を落とすノートには、びっしりと数式や重要な事項が綴られている。
「寒川さんも勉強したら? 転校早々、ひどい点数取ったら笑われるんじゃない?」
口角を僅かに上げた挑発的な物言いだった。翔子は違和感を抱き、「ん?」と思わず漏らした。
「いや、『ん?』じゃないでしょ」
今度はあからさまに鼻で笑われた。やはり何か変。昨日の千冬さんと違う。
「あとさ、軽々しく下の名前で呼ぶのやめてくれない? 外様が馴れ馴れしいんだけど」
嫌われた、と翔子は思った。昨日、約束を破ったからだ。
「ごめんなさい」
「何を謝ってんだか」
「だって、昨日の……」
「昨日? 何にもなかったじゃん。……いい加減、テス勉すれば? 追試になっても知らないよ」
氷柱のような言い方が喉に突き刺さり、翔子は次の言葉を口にできなかった。
うん、分かったよ……。
胸の内で呟き、彼女は席へ着いた。
実力テストは散々の出来だった。
「まあ、寒川さんはあまり勉強する時間もなかっただろうし、これから頑張って」
担任に宥められて職員室から戻ると、教室に千冬の姿があった。
「だから言ったじゃん。ちゃんと勉強しな、って」
ひゅん、と翔び雪のような鋭い言霊が胸に突き刺さった。
「あの……、本当に鷲尾さん?」
「は? 何、当たり前のこと言ってんの」
おずおずと翔子が訊くと、ため息混じりに千冬は言った。
「約束は破るし、そのくせテストの出来はからっきしだし、おまけに翔び雪なのに外に出て顔怪我するとか。引っ越してくる前にY市のこと調べなかったのかな? 無知は罪だよ。あんたって、本当に鈍臭いし、最低だね」
そう千冬は吐き捨てると、ふんっと鼻を鳴らして教室から出ていった。
ピシャン!
乱雑に閉じられたドアが、二人の関係を完全に断ち切ってしまった。
「……ってことがあったんだけど」
空き教室で体幹トレーニングをしていた卯野に翔子が話しかけると、「ほぉん」と興味なさそうに彼は曖昧な反応を返した。
あの一件以来、千冬をはじめとするクラスメイト(主に女子)は翔子を露骨に避けるようになった。彼女らから話しかけることは滅多になく、授業中に教師からペアを組むよう指示が出た時は必要最低限の会話をするが、その時は決まって苦虫を噛み潰したような顔をされる。翔子が話しかけようとすれば示し合わせたように席を立ち、どこかへと行ってしまう。
「ハブられてるよね……。ああ、失敗した……」
「ごめんな。俺を手伝おうとしたのに、嫌われるなんて。百パー、俺のせいや」
「いやいや。私が鈍臭いから――」
「そんな臭うか?」
翔子に被せるようにして卯野は顔を近づけた。やっぱり近い! 翔子は思わずのけぞった。
「別に臭くないやん。むしろ、ええ匂いや。俺は好きやで」
「そ、そういうんじゃないから!」
手をしきりにばたつかせ、翔子は異を唱えた。どうやら卯野は天然なところがある。先日の絆創膏の件といい、人懐っこいのか、距離感が近すぎる。
「ま、ハブられたんなら睨んどけばいいんよ。蛇にらみや。ハブだけに」
「……はぁ」
「ここ、笑うとこやで」
そう肩をすくめる卯野がどこかおかしくて、翔子は吹き出した。クラスの居心地は良くないが、卯野といる時は少しだけ心が軽くなる。身体が軽くなって、どこへでも走っていけそうになる。
「そや、この前のお礼」
卯野は窓を開けると外に出、降り積もった雪を手に取った。慣れた手つきで雪をまとめ上げ、近くに生えていた南天の葉と実を雪の塊にくっつけると、
「ほれ」
土も枯れ木も混じっていない純白の身体に、赤くて丸い目、ウサギらしく長い耳。紛れもなく、雪うさぎだった。
「わ! かわいい!」
「ふっ、やっぱり。思った通りの反応」
くはっ、と卯野は顔を綻ばせた。日光を反射する雪のように眩しい笑顔だった。
「思った通り、って……。なんか複雑。……まぁ、かわいいのは確かだけど」
「そういう寒川さんもかわいいやん」
「な……! 卯野くん、そういうことは軽々しく言わない方がいいと思うよ」
思わぬ言葉に強めの口調で返すと、卯野は目をぱちくりとさせて零した。
「そうか? かわいいもんは、かわいいでええやん」
「だーかーらー」
ため息を多分に含ませながら続きを言おうとしたところで、翔子は口をつぐんだ。いや、これが卯野くんなのかもしれない。少し天然で、距離感が近くて、素直にかわいいと言う。別に私が矯正する必要はないのでは? むしろ卯野くんの個性を奪ってしまうような気がする。
いや……。
そこまで考えて、彼女は思考を止めた。
それが卯野くんなんだろうか。私は卯野くんの一側面しか知らないのではないか。これが卯野くんだと決めつけるのは早すぎる。鷲尾さんのことだって、優しい人だと思ったけど次の日は冷たかった。私はまだ全然知らない、無知なんだ……。
ぬらり、と翔子の中で黒く立ち上がるものがあった。
「ねぇ、卯野くん。無知は罪なのかな?」
プランクをしている卯野の背中に投げると、「おぅん?」と間抜けな声が聞こえた。
「無知は罪やないやろ。恥かもしれんけど、罪やないことは確かや」
ぬぉ、ときつそうな声とともに、彼ははっきりと答えた。
「知ろうとしないことの方がよっぽど罪や。あと、知らないのに非難する人とかな」
翔子ははっとした。急に決まった父の転勤。時間がなくてY市のことを調べる時間がなかったが、私はY市のことを知ろうとしただろうか。前の学校の未練が残っていて、転校先の学校に不安があって、物事が手につかなかったのは確かだ。でも、それは言い訳で、私は何も知ろうとしていなかった。
「卯野くん、ありがとう」
「何が?」
「とにかく、ありがとう」
クランチを始めた卯野に声をかけると、翔子は図書室へと向かった。
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