第二話 寒雷

 ゴゴロロォ、ゴゴォ、ロロ……


「え? 雷?」

 空からの予期せぬ気配に鼓膜を叩かれ、翔子は顔を上げた。空を黒々とした雲が覆い、今にも雨、いや、この寒さでは雪が降りそうだった。

「いけない! 時間、時間」

 空に目をやると同時に、壁の時計が目に入った。十二時四十五分。千冬との約束まであと十五分ある。

 翔子は帰りのホームルームで配布されたプリントをしまい、立ち上がった。特三A。管理棟三階。行けば分かると千冬は言っていたが、果たしてそうだろうか。

「うーん」

 彼女は少し考えた。時間があるとはいえ、遅れるのはよくない。早めに行こう。

 教室にはまだ数名の生徒が残っていた。明日のテストに向けて勉強する生徒もいれば、休み明けゆえか普段より一層雑談に興じる生徒もいる。

 また、明日。

 胸の内で彼らに投げかけると、翔子は静かにドアを閉じ、廊下に出た。教室と違って寒い。足先から冷気が上ってくる。

「急ご」

 窓から管理棟の教室が見えた。三階、中央。電気がついている教室がある。きっと、あそこだろう。

「おい、翔び雪じゃね?」

「かもな。雷が鳴ってるし」

 渡り廊下を通るため階段を下りていると、他のクラスの生徒たちとすれ違った。胸元のバッチから一年生だと分かる。赤が一年生、青が二年生、緑が三年生である。

「トビユキ?」

 聞いたことのない言葉に翔子は首をかしげた。雪の種類だろうか。雷が関係するのだろうか。この町だけのものなのだろうか。あらゆる疑問が彼女の頭に次々と浮かんだ。

「あ、の……」

 一年生たちに尋ねようとしたが、すでに彼らの姿はなかった。逃げ足の速いウサギのようである。

「あとで訊こう」

 千冬に訊けば教えてくれるだろう。多分、彼女は親切だ。右も左も分からない私を歓迎してくれるなんて。朝までの不安が嘘のように足が軽い。

 鼻歌混じりに歩いていると、翔子は渡り廊下にさしかかった。シューズは室内用でも、窓のないここは冷凍庫のように寒い。凛烈な空気がタイツすら履いていない脚に襲いかかってくる。

「……すぅ!」

 思わず身を縮こませた。こんな中を行かなきゃいけないの? 不満が頭をもたげた。Y市の冬を甘く見ていたのかもしれない。室内だからと安心しきってマフラーをしていなかった首元からも、冷気は遠慮なしに入り込んできた。

「急がないと」

 しかし、彼女が身を奮い立たせたその時だった。

 白い閃光が、落ちた。


 ビシャァァン! ゴゴ、ロロォ、ゴロォ……


 反射的に耳を塞ぎ、その場にうずくまった。かなり近い。

「翔び雪じゃ!」

「おい、早く戻れ!」

「片付けは後でいいから!」

 窓から教師たちがしきりに叫んでいる。血相を変え、とにかく屋内に入るよう何度も何度も呼びかけている。

「え、何事?」

 何が何だか分からない。ただの雷じゃないの? 確かに雷は夏のイメージがあるけど……。翔び雪といい、一体何が起きているの?

 翔子が戸惑い、辺りを見回していると、一人の男子生徒の姿が目に入った。陸上部の活動中だったのだろう。走り高跳びのマットを一人で引きずっている。しかし、中学生が一人で動かすのは難しく、運ぶのに苦労している様子だった。

「手伝わないと」

 翔び雪が何なのかは分からない。教師たちの様子から考えれば、危険かもしれない。

 しかし、彼が困っているのを見過ごすわけにはいかないし、早く屋内に入るよう彼に言わなければならない。

 翔子は脱兎のごとく、黒々とした空の下へと駆け出した。

「ちょっと、翔子ちゃん!」

 背後から千冬の声が聞こえた。窓から身を乗り出し、「戻ってきて! 危ないよ!」と悲鳴のように叫んでいる。

「大丈夫! すぐ戻るか、ら……?」


 シャァン


 頬に糸を当てられたような感覚があった。それとも自分の髪だろうか。一筋の線を顔に引かれた気がした。

 いや、「気がした」のではない。

「痛っ……」

 足が止まった。まさか、と思い、頬をさする。案の定だった。

 淡雪を思わせる彼女の白い左頬には、確かに真紅の直線が走っていた。

「嘘……」

 翔子は言葉を失った。何これ。ただの雪でしょ? 違うの?

 思考がまとまらない。これが翔び雪なの? 普通の雪じゃないの?

 ここはどこだろう。私は異世界に来てしまったんだろうか。

 父の転勤についてきただけのはずだったのに。同じ日本のはずなのに。どうして、こんなに不思議な世界に迷い込んでしまったんだろう。


 サクッ シャク カランッ カ カクッ


 鋭い音が鼓膜を突き破った。音のした方を見ると、大きな雪の結晶が地面にいくつも刺さっていた。

「おい! こっち!」

 翔子が顔を上げると、先ほどの男子生徒が手を振って呼んでいた。

「早う! こっちや!」

 体育倉庫の前で、関西弁のような口調で怒鳴っている。「ぼけっとしたらあかん! 走れ!」

 翔子は大きく頷き、彼のもとへと急いだ。質問は後ですればいい。今はとにかく身を守らないと。彼女はカバンで頭を守り、全速力で倉庫へ駆け込んだ。

「はぁ……、はぁ……」

 翔子が飛び込んだ瞬間、雪は一層激しく降り始めた。


 ガランッ コロ ガラガララ ゴンッ ゴッ


 六花がトタン屋根を休む間もなく叩いている。大粒の雨とは違う重みが、天から翔子の胸の内へと落ちてくる。

「自分、転校生の寒川さんやな?」

 翔子の息が整った頃、男子生徒が声をかけた。

「そう、だけど……。あなたは?」

「俺は卯野大翔うのひろと。同じクラスやけど……、まだ転校初日じゃ分からんか」

「ごめんなさい。覚え切れてなくて」

「ええよ。最初はそんなもんやろ」

 けはっ、と卯野は歯を見せた。翔子もつられて、ふっと笑みを零した。

「あ、血ぃ出とる。絆創膏あるから使い」

「あ、ありがと」

 卯野は箱ごと絆創膏を手渡しかけ、「顔やと自分じゃ貼りにくいよな?」と翔子の顔を覗き込んだ。

「俺が貼ったる」

 彼は、ビ、と絆創膏を切り離し、慣れた手つきで紙を剥がすと、翔子の顔にあてがった。

「うーん。思ったより大きいなぁ」

「ち……!」

「ん? どうかしたか?」

 目の前で卯野が訝しげに首をひねっている。涅色の短髪にスポーツマンらしく爽やかな顔つき。男子のことに疎い翔子でも、彼の顔立ちが整っていることは容易に分かる。

 翔子は身体が暖炉のように熱くなるのを感じた。どういうことだろう。さっきまで身体の芯まで凍えそうだったのに、今は汗が出るほどに暑い。

「だ、大丈夫だから! 一人で貼れるから!」

 彼女は彼が救急箱から取り出していた大きめの絆創膏をひったくり、痛みのする辺りに貼り付けた。

「そこ、ずれとるで」

「嘘」

「あと二センチくらい下やな」

「ここ?」

「そう、そこ」

「ありがと」

「ええって」

 ふ、と卯野の表情が緩んだ。二人の間に漂っていた空気も同時に解けていく。

「ねぇ、トビユキって何?」

 翔子は先ほどから気になっていたことについて尋ねた。教師や生徒の様子が慌ただしくなった要因である「翔び雪」。この町にやってきたばかりの彼女にとって初耳の単語である。

「寒川さん、翔び雪知らんのか」

 目を丸くして、彼は素っ頓狂な声を上げた。

「割と有名だと思っとんたんやけど」

「ごめん、無知で」

「いんや、来たばかりやからしゃぁない。今日覚えればええよ」

「ありがと」

 二人はそばにあったパイプ椅子に腰掛けた。「ここ、倉庫じゃなくて部室な」と卯野は思い出したように言い、カバンから懐炉を取り出して翔子に手渡した。

「翔び雪ってんのはな、この町特有の雪や。冬になると、たまにめっちゃ鋭い雪の結晶が降ってくるんよ。まさに『雪の槍』や」

「槍が降っても、みたいな槍?」

「必ずしも槍の形をしてるわけじゃないんやけどな。でも鋭いから、下手すると寒川さんみたいに切ったりして怪我する。場合によっては何針も縫うことだってあるんよ。だから、翔び雪の時は屋内に入るように言われとる。冬に雷が鳴ったらだいたい翔び雪やから、すぐ避難。これ鉄則な」

 何針も縫う……。想像しただけで翔子は背筋が凍った。先ほどまでの熱はすっかり冷めて、風邪を引いてしまいそうである。

「でも悪いことばかりやない。翔び雪が降った次の秋は豊作になるんよ。ま、農家にとっては試練みたいなもんやな」

 翔子はその話が自分の心の奥底へととっぷり沈み込んでいくような気がした。何だろう、とてもしっくりくるというか、なるほどと思わされる話だ。

「毎年降るわけやないけどな」

 最後に卯野がそう付け加える頃、屋根を叩く音はすっかり消えていた。

「もう、大丈夫そうやな。マット片すの手伝おうとしてくれたんやろ? 気持ちだけでもありがたいわ」

「うん……。でも、片付けられてないよね? 翔び雪で破れたりしない?」

「直せばいいんよ。明日テストなのに部活やろうとしてた俺が悪いし」

 翔び雪が嘘のように、ちらちらと穏やかに舞う銀花が、マットを運ぶ二人を包み込んでいた。

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