翔び雪

卯木よよい

第一章 寒雷

第一話 新天地

 寒川翔子さむかわしょうこがこのY市に来て初めて知ったことは、冬は雪の降る空よりも、雪の降らない曇り空の方が冷たいということである。

 どんよりと重たい鼠色の雲が肩を落とし、地上にひやりとした冷たい空気を押しとどめている。それは顔を覆うように貼り付いてきて、少し触れれば切られる、割れた硝子のようだった。

 翔子はマフラーに顔をうずめた。雪の降らない町で育った彼女にとって、この町の冬はかつて経験したことのない寒さだった。凍てついた空気が足下からさわりと忍び込んできて、徐々に体温を奪い始めたかと思いきや、気づいた頃には足が丸太のように重かった。

 忙しなく足を動かして身体を温めながら、彼女は新たな学び舎へと急いだ。中学二年の三学期の転校初日。初っ端から遅刻はしたくない。

 Y市は静かな町だった。朝の早い時間帯とはいえ、人影が少なく、家々から聞こえる会話も、朝食の匂いもほとんどない。耳を澄ませば、鼻を利かせれば、かろうじて人の気配を感じ取ることはできる。しかし、やはりそうしなければ町に人は一人もいないのではないかと錯覚するほどに、静寂の帳が辺りを支配していた。この町は総じて白いのである。

 カサッ

 ふと、道端の茂みの方から音がした。除雪された雪の向こう、土の混じった雪を被り、くすんだ緑をした茂み。中から姿を現したそれを、翔子は初めて目の当たりにした。

 白い体毛の野ウサギである。

「……あ」

 彼女は息を呑んだ。かわいいというより、びっくりという方が正しい。驚きのあまり、身体が動かない。野生の動物を目にしたことなどなかった。以前の町でサルが出たから下校時は注意しなさいと担任から言われたことはあったが、結局のところ見かけることはなかった。野生のタヌキを見かけたと言うクラスメイトの話を頼りに探したこともあったが、見つけることはできなかった。とどのつまり、翔子が目にしたことのある動物は、近所で飼われているイヌやネコ、動物園で飼育されているゾウやキリンくらいである。

 驚きと感動とが彼女の身体を包み込んだ。

 山野に生きる動物にやっと会うことができた。

 クラスメイトの話も、テレビのドキュメンタリー番組も、比ではない。

 しばらくの間、目が合った。辺りはやはり静寂に包まれていて、二人の間に割り込む者はいなかった。

 しかし、野ウサギは警戒したのか、「きゅぅ……」と小さく鳴くと、冬の大地へと駆けていった。

「この辺りはウサギもいるんだ……」

 思わぬ出会いに胸が高鳴った。不安だらけの朝、重たかった足取りがほんの少しだけ軽くなったような気がした。




 転校初日は始業式と大掃除で終わり、正午前には放課となった。

「はぁ……」

 翔子は一つため息をついた。自己紹介では緊張してしどろもどろになるし、新調したはずのシューズは前の学校のものだった。担任は「最初だから仕方ないさ」と励ましたが、「うぅ……」と翔子は顔を赤くするほかなかった。数時間経った今でも、思い出すだけで顔が熱い。

 しかし、中学生というのはどこでも似たようなものだと思った。教室を走り回る腕白な男子も、人気の俳優にきゃっきゃする女子も、前の学校でよく見かけた。ここも同じだ。変わらない。石川くんは山原くんに似ているし、近藤さんは田中さんに似ている。そう考えると、少しだけ緊張が解ける。

 学期の初めの日程も似ていた。三学期の初日は始業式、二日目は冬休み明けの実力テスト、三日目から通常授業。

(だから今日は早く帰って勉強しなくちゃ……。でも、引っ越しの荷解き終わってないしなぁ……)

 ふあ、とあくびを噛み殺した。昨晩は荷解きと不安とでよく眠れなかった。早く帰って少し寝よう。そしてテスト勉強……。寒いから炬燵でやろうかな。

「ねぇ、寒川さん」

 帰り支度をする翔子に話しかける女子生徒の姿があった。鷲尾千冬わしおちふゆ。ボブカットの髪と切れ長の目、そしてすらりとした長身から感じられる圧が、彼女がこのクラスの中心であることを物語っている。

「放課後、時間あるかな? 寒川さんの歓迎会をやろうと思うんだけど」

 柔らかな笑みを浮かべながら千冬は尋ねた。翔子は目をぱちくりさせ、問うた。

「いいの?」

「あたしらがやりたいの。それに、明日テストじゃん? 転校してすぐテストとか意味分かんないよね。だからさ、一緒にテス勉しない?」

 雪の下から覗く萌芽のようにたおやかな言葉に、翔子は胸がぽかぽかと温まるのを感じた。

「ありがとう、鷲尾さん」

「千冬でいいよ。……寒川さんのことも、翔子ちゃんって呼んだ方がいいかな?」

「うん。そっちの方が呼ばれ慣れてるから」

「分かった。翔子ちゃん、ね。……準備とかあるから、一時に特三Aっていう教室に来てもらえる? 管理棟の三階にあるから、行けば分かると思う」

「うん。ありがとう」

 翔子が明るく答えると、「じゃあ、また後でね」と千冬は教室から出ていった。

 Y市は寒くても、このクラスは温かい。自己紹介でつっかえても最後は万雷の拍手だったし、隣の席の諏訪くんも「分からないことあったら遠慮なく聞いて」と言ってくれた。初めての転校で不安だらけだったが、そんなのは杞憂だったようだ。

「まだ時間あるなぁ……」

 翔子は窓に近寄り、グラウンドを眺めた。

 陸上部と思しき男子生徒が高跳びのマットを運び出しているのが見えた。

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