墓あばき

ひられん

墓あばき

墓あばき



 なじみの匂いが鼻腔をくすぐった。

 枕にしみついた匂いのような、冬の毛布のなかの匂い。

 うっすらと眼を開ければ、ぼんやりと光が見えた。


「あっ……」


 生きてる。

 最初に直感したのは『生きてる』。

 断片的な記憶がある。

 痛み、身体の張り、疼痛、背中が伸ばせない激痛……。

 妻の顔と子どもたちの姿――。

 病室と看護婦と……窓の向こうに見えた川辺の桜並木――。


「生きてんだ、俺って」


 腰に手を触れる。

 痛みはない。

 あれほど痛かった、内側から響くような疼痛がすっかりない。

 ゆっくりと起き上がろうとしたとき、自分がベッドではなくて座席に座っていることに気づいた。

 ずらりと並んだ座席が見える。

 正面にはスクリーンがあり、何段も座席が並んでいる。


「映画館……?」


 どうして。

 スクリーンの上部にある屋根は崩落していて、抜けるような青空が見えた。

 冬の午前のような澄んだ青空で、夏の迫って来る青空とは違っていた。

 なにがどうなっているのか。

 そんな混乱がぐるぐると頭をめぐる一方で「綺麗だな……」と青空を見上げてしまう。

 寝起きの混乱が身体にびっちりと張り付いているみたいに、思考がうまくまとまってくれない。

 俺は自らの身体を点検する。


 痛みはない。


 寝間着姿で、足も手も動く。

 試しに映画館の座席から立ち上がってみる。


「うん、立てる」


 痺れもなければ、違和感もない。


「戻ったのか……?」


 寝間着姿。

 そうだ、これは病院で着用していた寝間着だ。


「俺は、ずっと入院していたハズなのに……」


 正面のスクリーンを見上げる。

 崩落した天井と半壊した壁――。

 壊れた映画館の座席で、どうして俺は目覚めたのだろうか。


「気が付きましたね」


 背後から声をかけられて、俺はハッとした。

 振り返ると長い髪の女性が立っていた。

 彼女はとても美しい白い髪と肌をしている。

 年齢は二十代だろうか。

 パンツスーツを着た新卒の女の子のようにも見えたし、幼い面影を残す三十代とも思えた。

 どちらにしても、俺よりも年下で……素敵な時間を過ごす年代の子だ。


「あの、ここは……。それに、あなたは?」

「ここは記憶の上映室です。便宜的に、映画館の体裁をとっていますが、実態はありません。あなたの記憶を連想させるための仮想舞台のようなものです。では、直近の記憶の確認から始めていきましょう」

「記憶の確認……?」


 彼女は座席の階段をゆっくりとくだりながら、俺の前の列に身を入れた。


「近藤敬(こんどう けい)さんですね?」

「えっ、はい」

「年齢は四十六歳ですね。四十五歳の奥様と二十一歳の長男、それと十九歳の長女がご家族になりますね?」

「そ、そうですが……」


 彼女は小脇に抱えていた電子パッドをポチポチしながら、俺の個人情報を並べ立てる。

 少し不愉快な気持ちになって「あ、あのっ!」と強く意気込んで声を発した。

 久しぶりに、少し大きな声を出した気がした――。


「近藤さん!」


 切っ先を制すように、ぴしゃりと彼女は俺の名前を呼びつけた。


「あっ、はい?」

「これからの手続きのお話をします」

「手続きですか……?」


 ――なんの?


 彼女は言った。


「めでたく、六月二日に近藤敬さんはお亡くなりになりました。これより死後の手続きを行いますので、必要事項にお答えください」

「うぇ? 死んだ……?」

「はい、お亡くなりになりました」


 冷静に彼女は言い、電子パッドに視線を落とす。

 俺は自分の身体をまさぐって、腕も足も腹も腰も、ちゃんとそこにあることを確認する。


「いやいや、生きてますよ。ほら」

「記憶が実態を保持しているのです。わかりやすく言えば、キャッシュがまだ残って機能している状態です」

「そんなキャッシュって」


 え、なに。

 死んだあともキャッシュとかサードパーティーとか、通用するの?

 蓮華とか阿弥陀如来とか、そういう世界なんじゃないの?

 俺は軽いめまいを起こしそうになったとき、彼女は言った。


「スムーズに手続きを進めるために、言語も価値観も生前のものに合わせているだけです。わたしのこの身体も、近藤さんが理解しやすいために形成しているものです。なので、実態があるわけではないんです」

「なんだか、わかるような。わからないような」

「理解していただかなくて結構です。いまの記憶はどちらにせよ失われますので、余計な知識保存をしていただく意味はありません」


 すごくドライな人だな、このひと……。

 俺は腕を組んで眉を寄せる。


「名前ぐらい、名乗ったらどうなんです?」

「長谷川健次郎です」

「それ、俺の親友の名前なんだけど」

「ですから、便宜的に名乗っているだけです。わたしに、あなた方のような名前という概念がありませんので」


 健次郎という名前の響きと色白で美しい女性の容姿が、まったく一致しない。

 中学時代からの友人である長谷川健次郎は、身長が百九十センチもある大男で、いまはスキンヘッドの中年男だ。

 こんな若くて可愛らしい女性が名乗っても、イメージが一致しない。

 仕方なく「じゃあ、長谷川さんでいいかな?」と改まる。

 彼女は「構いません」と言ってから。


「ご存じとは思いますが、死因は急性白血病になります」


 そう言われて、俺は「あっ……」と身を引いた。

 じゃあ、やっぱり治らなかったんだ。

 色白な長谷川は俺の様子をちらと見てから、電子パッドになにかを書き込んだようだった。


「昨日、四十九日の法要が終わり、あなたは冥界の器に魂が完全に移行しました。そのため、こうして事後処理の機会を得たというわけです」

「よくわからん」

「俗にいうバルドゥの世界です。生者の世界が終わりましたが、成仏と転生を待つ中間の世界にある状況です」

「ごめん。あんまり宗教ってうまく理解できてないから、わからないかもしれない」

「構いません。理解する必要はないのですから」


 彼女はそう言ってからパッドを操作して、正面のスクリーンを点灯させた。

 映画館のスクリーンが、じっとりとした電子の黒に染まる。


「審判を受ける前に、死後の処理を行います。もちろん、近藤さんが希望されなければ、スキップすることもできます」

「だから、その『処理』とはなんなんです?」


 どうにも、この長谷川は説明を端折る。

 うまく理解できないまま、勝手に話が先に転がっていくようで……気持ちのいいものではなかった。

 スクリーンがパッと明転する。

 そこは自宅の書斎だった。

 書斎といっても日当たりの悪い北側の納戸に、本棚と机を置いた『パパの部屋』であるわけだが……。


「ここは、俺の部屋だ」


 北側に曇りガラスの高窓があるのだが、隣家との距離が近いためにほとんど陽が入ってこない。その高窓の下に机があり、デスクトップのパソコンがあり、キーケースやティッシュボックスや自分宛ての封筒や請求書などが乱雑に置かれている。

 東側と西側の壁には大小の本棚があり、仕事の関連本や大学時代の専門書などが並んでいる。一時期にハマっていた明治文学やロシア文学の文庫本などもある。

 それらの書籍のタイトルや汚れたパソコンのキーボードが、妙に懐かしく感じられた。

 もう、あの部屋に戻ることはないのだ。

 それが……すごく心寂しく感じられた。


「近藤さん。まさに、お部屋に近藤さんは戻りません」

「死んでるから、当然か。というか、ちょくちょく心を読んでない?」

「あ、読んでます。読むというか、共有するというか。とにかく、わかります」


 長谷川はそう言い、映画館のスクリーンにカーソルを示して、本棚の一部を指さした。


「これから死後の処理を行います」

「だから、その処理って言うのは――」


 言い終わる前に、書斎(パパの部屋)のドアが開いた。

 入って来たのは長男の大輝(だいき)と妻の真紀(まき)だった。それから少し遅れて、彩佳(あやか)もやって来た。

 彼らは手袋をしている。

 大輝と彩佳はジャージ姿で、妻の真紀はエプロンをしていた。

 久しぶりに目にした家族の姿に、ちょっとだけ胸がキュッとした。


 俺の、家族だ。


 スクリーン越しに眺める自分の家族は……どこか切ない。

 いつも同じ場所を共有していたのに、スクリーンという境目を介す世界に離別してしまった。

 死んでしまった、という実感が足元からぐわりと湧き上がってくる。

 長谷川はちらと俺を見てから「いま、ご家族は近藤さんの死から次の一歩を踏み出そうとしています」と述べた。

 それを示すように、大輝が「さァーて!」と意気込むように声を発して、妻と娘に向き直る。


「親父の部屋の整理、やっちまおう」


 妻の真紀は小さく頷き「みんなで決めたもんね。新しく生活を立て直すって」と自らに言い聞かせるように諳んじた。

 どうやら、家族会議をして……俺の部屋を片付けることに決めたのだろう。

 納骨をしてどれぐらいの時間を要したのかはわからない。

 真紀の様子から、あまり時間を置いていないことは察しがついたが……具体的に、死後どれぐらいの時間が経っているのか想像もつかない。

 大きな窓があれば、外の様子から季節を把握することが出来るが――残念ながら、書斎には高い位置に曇りガラスがはめ込まれているだけだ。

 光の差し込まない、曇った高窓が。

 娘の彩佳が「金の時計とか、へそくりの百万円とか出てこないかなー」そう言って本棚の本を数冊ほど引っ張り出した。

 まったく彩佳のやつは、もう立ち直って――。


「ま、待て待て待て!」


 俺は慌ててスクリーンに歩み寄る。

 階段状の観客席を数段ほど下って、長谷川に振り返る。


「ちょ、ちょっと待ってくれ!」

「はい、一時停止しています」


 彼女の言う通り、スクリーンの映像は止まっている。

 俺はどう説明するべきか必死に考えた。

 考えたが……長谷川が、先回りするように言った。


「生前に処分できなかったものが、いくつかありますよね。それを処分する。それが、この場なのです」

「つ、つまり……」


 口のなかの唾液をぐいぐいと集めて、俺は必死に言葉を吐き出そうとした。

 けれども、あまりの焦燥感にうまく声が出なかった。

 長谷川はパッドを操作しながら。


「銀行口座がひとつ。ショッピングサイトがふたつ。それとマッチングアプリのアカウントがありますね。またクラウドストレージのアカウントも生きています」

「ああ、やめろ。やめろ! 言うんじゃない!」


 すると映像が再生されていたのか、どさどさと書籍が本棚から崩れる音がして「うわっ」「きゃあっ!」という短い驚きの声が響いた。

 そうして彩佳が手にしたのは、一冊のノートだった。


「なにかな、これ」


 彩佳を中心に真紀と大輝が覗き込む。

 長男の大輝が険しい表情でノートを見て。


「なんかの、IDかな。アカウントっぽくない?」

「でも、パスワードが書いてないよ。あっ、ショッピングサイトだ。ほら、アマゾンって書いてあるし」

「親父が個人的にアマゾンで買い物したのかな?」


 すると妻の真紀が「お歳暮とか、送ってもらってたじゃない。山口の叔父さんのところに」と述べた。

 大輝は小首をかしげて。


「いや、あれは家族のアカウントだったと思う。ポイントをためて、キッチンの食洗機を買ったでしょ? お歳暮とかお中元は、ぜんぶそっちで買ってたはずなのに……?」


 疑義を差しはさむ大輝に娘の彩佳が提案する。


「いったん、お父さんのパソコンつけてさ。ウェブのお気に入りとか履歴を確認したほうがいいんじゃない? 生きてるアカウントとか、あるかもしれないし」

「ああ、それもそうだな」


 若いふたりの子どもたちは、そう言ってパソコンの電源を入れた。

 俺は「ああああっ……」と両手で口を押さえて震えてしまった。


「長谷川さんッ! 処理できるんだろ。なんとかしてくれ! 見られたくない!」

「はい。もちろんです」


 長谷川はそう言って「では、第一問です」と改まる。


「えっ、第一問……?」

「お使いのパソコンの使用者名とOSの復旧キーをおっしゃってください」

「えっ、使用者名とOSの復旧キー……?」

「使用者名は最初期のセットアップ時に設定していますし、復旧キーについては指定されているものがあります」

「わ、わかんないよ、そんなもん! そもそも、それを把握してる奴なんてい――」

「あっ、ついたついた」


 彩佳の声にハッとして、俺はスクリーンに振り返る。

 彼女たちは手慣れた手つきでブラウザを立ち上げて、お気に入りや履歴を閲覧し始めた。


 ああっ、ああ、ダメだ。


 ダメだって。


「やめろ……やめろっ、ダメだ。見るな!」


 その瞬間、俺はぞっとした。

 この長谷川が言う『死後の処理』とは――。


「はい、ご明察のとおりです。アカウントやデータの消去をし忘れて亡くなられた際に、大変こまる場合が増えていますので、IDとパスワードを頂ければアカウントを閉鎖するという『処理』の時間です」


 彼女はそう言って「では、第二問です」と前置いた。


「埼玉県の××銀行に口座をお持ちですね。そちらのパスワードをお答えいただけますか?」

「あっ、ああ……。でも、待ってくれ。それは答えられるんだけれども、口座にはカネが入っている。それを家族に知ってもらいたい。口座は封鎖されたり、削除されると困るんだ」

「もちろんです。パスワードをおっしゃって頂ければ、その処理を致します」

「――だ。銀行の口座と同じだから、真紀もわかると思う」


 ぽちぽちと長谷川はパッドに情報を打ち込む。

 彼女はにっこりとほほ笑んで「正解です」と頷いた。


「おっ、銀行口座がある。これ、生きてるっぽいな」


 大輝はそう言って画面を進める。


「あっ、パスワードか。なんだろ、口座のパスワード」

「誕生日とか?」

「父さんの? 母さんの?」

「両方試してみたら?」

「連続で間違えるとロック掛かるから、慎重にやりたい」


 すると妻の真紀が「銀行口座の暗証番号かしら?」と言ってキーボードを叩いた。

 しばしの沈黙ののちに、三人は「えええええっ!」と声を上げた。

 その驚いた表情を見れて……俺は少し誇らしかった。

 慄いた様子で彩佳が真紀に振り返る。


「お母さん、これ、すごいよ」

「え、なんなの?」

「仮想通貨だよ。しかも結構な額が入ってる……」


 大輝はそう言って口元に手を添えて。


「うわっ、親父のやつ……けっこう昔から買ってるっぽい」


 長男が指摘する通り、俺は仮想通貨でそこそこ儲けた。

 引き出すときに注意が必要だし、仮想通貨の金融課税についてはすごく勉強した。

 これは生命保険とプラスして、結構な『遺産』になるはずだ。相続関係の税制については、あんまり詳しくないけど……。


「ねえ大輝……。支払った履歴、結構あるよね。なに買ったんだろう」

「ショッピングサイトの支払いとか、旅館の支払いっぽいな。新幹線のチケットとかも買ってる……。なんだろ、親父が仕事で出張に行くときは、会社の経費だよな。どうして仮想通貨で自腹切ってるんだ……?」


 残された遺族たちに、妙な沈黙が漂った。

 それは俺にとっても重苦しい時間だった。

 ゆっくりと長谷川に振り返る。

 彼女はニコニコしながら「では、第三問です」と笑う。


「クレジットカードと連動させていましたショッピングサイトのIDとパスワードをお答えください。交通系、公営ギャンブル、宿泊予約サイトとも連動しておりましたので、そちらのパスワードをお答えください」


 うっ……。


「しょ、ショッピングサイトのやつはわかる!」

「いいえ、統合しているサイトのものをお願いします」


 わかっている。

 クレジットカード会社のサイトと連動しているやつだ。

 たしか三段階認証とか本人確認とか、パスワードも記号英数混合で二十文字近いものを入力した気がする。

 でも、それが具体的になんだったか……思い出せない。

 ログインするときは記憶されていたし、そもそもパスワード欄は●●●●という具合に表示されるから目につかない。

 日常的に使っていたけれども、そのIDとパスワードがなんだったかなんて――。


「ブブーッ!!!」


 長谷川はおちゃめに言ってから、スクリーンを指さした。

 そこには不穏な空気を切り抜けた、疑念と疑惑を抱いた家族(遺族)の姿があった。

 画面が切り替わって、娘の彩佳が「ちょっとヤダァ……」と顔を背けた。

 大輝は「ばか……」と顔を顰めている。

 真紀だけが、唇を真一文字に結んで画面を直視していた。

 ナース服、避妊具、潤滑剤(ローション)、スクール水着、バニー服、女子高生の制服――。

 購入履歴は……『趣味』なもので埋め尽くされている。


「あァ、真紀ッ……あの、違うんだ。待って、事情があって説明をすれば――」


 必死にスクリーンに訴えかけたが、聞こえるわけがない。

 俺は長谷川に振り返って、必死に反論した。

 いや、開き直った。


「ああ、買ったさ! 仮想通貨で儲かったからな! 自分のカネでなにを買おうと文句ないはずだ! 真紀と話をさせてくれっ! 俺の言い分だってあるんだ!」


 もう少し真紀が性に奔放で、俺の欲望を受け入れてくれたらこんなことにはならなかった。

 俺はいつだって『男の子』だし、子どもが生まれて大きくなったから性欲が急激に減退するわけではない。

 真紀が好きだった。スクール水着や高校の制服やナース服を着た真紀を抱きしめたかった。

 四十代でも、五十代でも構わない。

 真紀がそれをさせてくれていれば……俺はこんな破廉恥な衣装をこっそり買うようなことはなかったのだ。


「お、俺にだって言い分があるんだ!」


 必死に訴えたが長谷川は表情をひとつ変えず、じっと画面を見つめたまま。


「二十代か、せめて三十代でなくては『いけなかった』のではありませんか?」

「そ、そんなことはない!」

「議論しても仕方のないことです。あなたはすでに人生を『まっとう』したので、彼らに反論する機会は与えられません」


 長谷川が返答したとき、スクリーンから大輝のうめき声が聞こえた。


「待ってよ。隣の××町でレンタルルーム契約してる。その引き落としも来てるよ」

「じゃあ、お父さんの変態グッズは全部そこに?」

「わかんない。でも、連絡入れないと。契約者が亡くなってるわけだから」


 子どもたちが相談をしているとき、妻の真紀が「住所」と短く言った。


「大輝、住所わかる? そこのメモ帳に書いてくれる? お母さん、あとで行ってくるから」


 沈んだ声色で真紀は言った。

 そのヒリついた声は子どもたちにも伝わり、書斎の空気が張り詰めていた。

 スクリーンを見ていた長谷川が「あと二問です」と述べた。


「二問……?」

「SNSのアカウントです。マッチングアプリをご利用していましたよね。そちらのアカウントです」

「いや、あれは指紋認証で開いていたから……パスワード設定なんて」

「最初に、していますよ」

「えっ、いや……じゃあ、××××かな」

「残念ですが、違います」

「なら、××××だ!」

「違います」


 まずい。

 焦燥感が募る。

 マッチングアプリは家族に見られるわけにはいかない。

 あそこを見られたら、まずいことになる……!!!


「ええっと、待ってくれよ。いま、思い出すから」

「ブブブーッ!!! 申し訳ありませんが、あなたは覚えていません」

「待て待て待てッ! ちょっと待ってくれ!」


 長谷川の両肩を掴んで訴えたが、まるで手ごたえの無い人形のように彼女は動かない。

 一方で、スクリーンから真紀の声が響いた。


「これ、あけられる?」


 それは俺のスマホだった。

 なにか邪悪なものを見るように彩佳はそれを見て、受け取った。

 彼女はなぜかパスコードを知っていて、画面を開けた。


「よく知ってたな、パスコード」


 大輝の質問に彩佳は「お父さん、単純なの設定してたから」と答えた。

 俺は四つん這いになってうずくまってしまう。

 もう見ていられなかった。

 しばしの沈黙が流れる。

 大輝が俺のスマホをいじっている。

 最初は彩佳が。

 途中から「なんか、見たくないかも」とスマホを兄に託したのだ。

 大輝が見つける。


「うわっ、マッチングアプリあった」


 真紀の鋭い「入れる?」の声。

 大輝は無言でアプリをタップして。


「パスワードかかってる」


 希望――。


 俺は希望に目を輝かせてスクリーンを見上げる。


「たぶん0000じゃない。指紋認証で使ってたら、初期設定のままだと思う」


 彩佳の指摘に「あっ……」と俺は呻いてしまった。

 同時に大輝も「あっ……」と気まずい声を漏らす。

 入れたのだろう。

 妻の真紀が「貸してくれる?」と穏やかに手を伸ばす。


 しばしの、沈黙――。


 とても重苦しい時間が流れる。

 狭い書斎に、昼下がりの暗がりが溜まっていた。

 真紀の表情が変わっていく。

 それは怒りや悲しみに変わるのではなく、無表情に沈んでいる。

 いつもそうだった。

 彼女は心の底から怒ると表情がなくなる。あの顔は……もうしばらくは仲直り出来ない顔だ。

 彼女は怒りに任せて、突拍子もないことをしでかすときがある。

 まだ若いとき、真紀の部屋に居候をしていた。それを半同棲と呼んでいたわけだが……。彼女が仕事に行っている間、俺は会社の女の子を真紀の自宅に連れ込んでしまった。

 運悪く、体調不良で真紀が帰ってきて……危うく包丁で刺し殺されそうになったことがある。あのときの表情と――いまの表情は同じだ。

 恐る恐る彩佳が聞く。


「やりとり、あるの?」

「ある」

「ひとり?」

「何人か。でも、ひとりかな」


 大輝が顔を覆っている。

 彩佳は落胆したように顔を伏せているが……真紀はジッとスマホを睨んだまま、指を動かし続けている。

 たぶん、やり取りをしているメッセージの内容を読んでいるのだろう。

 その重苦しい沈黙に耐えられなくなったのか、大輝が言った。


「母さん……。さっき父さんのスマホを見てた時に、クラウドストレージがあった気がするんだ。その、写真とか、動画とか保存できるクラウドの――」

「開けられる?」


 半ば強引に言葉をかぶせた真紀は、大輝にスマホを押し付けていた。

 彩佳が「バカッ」と兄を罵り、俺も「バカ野郎ッ!」と息子をなじっていた。

 長谷川がにっこりとほほ笑んで言った。


「最終問題です。あなたのクラウドストレージの、IDとパスワードを教えてください。もし正解が出来れば、あなたが不倫相手と撮影した痴態の画像と動画は、奥さんの目に触れず、処理致しますので」


 俺は軽く手を振った。

 わからない。

 そんなもの、意識しながら使っていなかったから。

 天井のない映画館は、無音だった。

 青空が、とても綺麗だった。

 スクリーンのなかで、流れてはいけない時間が流れていた。

 俺は『死んだこと』がせめてもの救いだと思った。


「長谷川さん。もう打つ手はないんだろ。次のステップに進みたいんだ。懲罰を受けるというか、死後の世界にちゃんと行くというか」

「いいんですか。最後までご覧にならなくて」

「残念だけど、見ていられない。自分の不始末とはいえ……まさか、死んだ後に暴かれるとは思ってもいなかったんだ」


 ちゃんと秘密は墓までもっていった。

 けれども、死後……その墓は暴かれるのだ。

 家族という盗掘者が、俺の大事な秘密を暴くのだ。

 長谷川が真っ白い手を差し出してきた。

 美しい、アルビノのような手だ。

 俺はそれをぎゅっと握った。

 彼女は階段を登るように映画館の出口へと導いてくれた。

 スクリーンから、スマホを床に叩きつけるような激しい音が聞こえて。


「やめて、おかあさんっ!」

「母さん危ないって。包丁なんて持たないでッ! どうするのっ、うわっ、危ないって!」


 息子と娘の声が聞こえた。

 振り返らない。

 いや、振り返れない。

 死後、裁きにあう。


「仕方がない。覚悟するよ」


 ぽつりと俺は自分に言い聞かせた。

 映画館の扉を出ると病院の待合室のような場所に繋がっていた。


「おおっ、敬じゃないか」


 座っていたひとりの男性がおもむろに立ち上がった。

 俺は「えっ、父さん?」と身構えた。

 父さんは朗らかに笑って。


「なーんだ、若くして死んだな。ほれ、見ろ。みんな待ってたんだ」


 待合室に座っていたのは、全員が死んだ親類縁者だった。総勢で三十名はいるだろうか。

 懐かしい顔ぶれで、子どものころを思い出す。彼らは死んだときの容姿のまま、彼らはおしゃべりを楽しんでいた。生きているうちにこういうことをしたんだよ、という老人たちの会話だ。

 どうやら、死んだ時期を境に現実世界の時間の流れから解放されるのだろう。

 長谷川は浅く瞑目してから。


「関係者がお集まりになるまで、こちらでお待ちください。そのうえで、如来さまの元へ審判を仰ぐ運びとなります」


 そう言って彼女は入って来たドアから出て行ってしまった。


「あっ、長谷川さん……」


 彼女の腕を取ろうとしたが、親父にぐいと腕を引っ張られた。


「俺が死んでから、家族はどうなった。話を聞かせろって。母さんもいるから、な? 孫の大輝と彩佳は、いまいくつなんだ」


 父親に促されて母親と祖母が座っている一角に腰を下ろす。


「ええっと、なんて言えばいいのかな」


 口ごもったとき、再び待合室のドアが開いた。

 そこには、不倫相手の果林が立っていた。

 その背後から包丁を持った妻の真紀が続いてきた。



 どうやら、如来の審判はそろそろ始まるらしい。

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墓あばき ひられん @HiraRen

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